比例代表制は一強をなくす制度であり少数派のためのものではない(最終改訂2021/10/10)

今回は3題

●民主主義とは・・ポピュリズム(自由主義)と民主主義の違い(民主主義とは)
●メルケル氏引退で思うこと、そして、日本人は比例代表制くらいでないと二大政党にもならない(ならなかった)のではということ
●池上彰氏の「比例代表制は少数派の意見も国会に反映させるため」という説明の罪深さ

↓2021/11/3追記 新たに整理したこと

 


●ポピュリズム(自由主義)と民主主義の違い(民主主義とは)

 ポピュリズムと民主主義の違いは、自由主義と民主主義の違いに置き換えることができます(なお、古典的自由主義やネオリベラリズム=新自由主義など放任に近いものをここでは「自由主義」と呼び、自由主義を生む精神や自由主義が生む混沌(争い、分断)や独占などの結果も広く含め「自由主義」とします)。ポピュリズムは大衆迎合や大衆扇動、衆愚政治などと訳されたり解釈されますが、必ずしも定義がかっちり定まっているわけではないようです。本稿では「大衆の支持や人気を背景に、大衆の理性を排除し、敵対する相手の考え(勢力)を否定、排除して、自己の考え(勢力)で社会を圧倒(独占)しようとする動き」であるとし、主に「右派ポピュリズム」と言われるものを指し、その闘争性、独占性(価値観の独占から始まり、権力、自由の独占へ)、理性の排除は自由主義と同じであると考えます。つまり、ポピュリズムは自由主義の体制、政党によって行われやすいことになります。
 右派ポピュリズムはヨーロッパでは保護貿易主義、排外主義、移民受け入れ反対と結びついていていますが、「分断」を基調とし闘争的な点はやはり自由主義的で、日本ではそのまま自由主義の政策の主張が右派ポピュリズムとなっています。

自由主義(小さな政府)とは
 人間の欲望を含めてできるだけ制限せず自由を優先するということは、争いやその結果起こることも容認するということです(そして自己責任として放置)。社会を不安定化させ壊す方向の働きをします。混沌(争い)とその争いの結果として、富や権力や自由の独占があります。古典的自由主義では所有権に制限はなかったと言います(特定の個人による地球上の全ての土地の独占もありだったのでしょうか)。自由主義は「小さな政府」の政策で資本主義とセットになり、再分配の否定(例えば日本では、増税と言えば消費税ばかりで累進課税には全く触れません)や社会保障の否定や規制緩和による雇用の不安定化など、社会不安が消費を抑制するためデフレ化政策となり経済が縮小します(瞬間的に成長しても、「強権と放置(喩えるなら、兵站なしで戦え)」の政策のため人をスポイルし、持続しません)。例えば、日本の新型コロナ対策では、当初の同調圧力をあてにした実質「強権」の要請と、その後は要請だから補償も行き届かず取り締まりも行われない「放置」でした。もう一つ、これも新型コロナ対策ですが、強権によるシステム開発で欠陥を生じ、放置により改善されない接触通知アプリの例もあります。これらは不満を生み、不満は自由主義のエンジンとなるため、例えばさらに強権的な政府を求めるという状況を招いてしまうなど、(全てを失う)全体主義への道だとも気付かずに自由主義は自励的に濃縮されます。蟻地獄のようです。今の自民党総裁選で河野氏が選ばれればこの濃縮作用の現れです。自由主義は欲望を引き出しますし、全体主義(「独占」の極限、つまり自由主義です)では個人の良心をも否定しますから、自由主義は基本的に人間のモラルの低さを引き出します(他国の人か自国民かを問わず他者を傷つけることに抵抗がなくなります。同調圧力の「気に入らない者を攻撃」が強く働きます。)。フランスではマクロン政権が強権的に(=自由主義により・・ワクチン接種に協力しない人を煽ってもいましたし)ワクチンパス義務化を行い「過激な」反対運動を誘発しました(いわゆる極左のような暴力は自由主義です→後述)。「強権」自体が自由主義なので、強権で抑えつけても自由主義がかえって増殖します(日本の場合は無責任で冷酷な同調圧力という自由主義が拡大します。なぜ同調圧力が自由主義なのかは後述。)。戦争を起こすのも基本的に自由主義です。社会を不安定化し、破壊し破滅させる働きがあるのが自由主義です。トランプ政権をご覧になったでしょう。政権末期、大統領選挙の負けが覆せない中、トランプ氏が核攻撃を行いかねない精神状態だったと軍幹部が先般明かし公表しました。
 米国共和党も日本の自民党も、保守、右派と言われるものはこちら。右派ポピュリズムの例えば日本維新の会もこちら。国粋主義、全体主義(独占の極限)もこちら。社会主義を自称した独占支配のナチスやソ連、中国もこちらです。明治政府もこちらで全体主義を誘導しました。濃厚な自由主義である全体主義の体制の寿命は、明治から太平洋戦争終結までの日本、ロシア革命からソ連崩壊の期間を参考に70数年と考えると、中曽根政権から始まる今の日本の新自由主義の体制は(そのまま変わらず自由主義を深めてゆけば)あと30数年で、全体主義の困窮の中、崩壊する可能性があります。

 マスコミも政治家も国民も自由主義と以下の民主主義の区別がつかない人がほとんどで「自由と民主主義」のように何の含意もなく簡単に並列させています。非常に危ないと思います。少し考えればわかることなのに考えないのでしょう。今の自民党総裁選でも「国民的な人気」を持ち出し、派閥の影響力を批判的に伝えて煽る報道がありますが、人気投票という最も「衆愚」に近い危険なものを、マスコミが焚きつけています。候補者の人物を知る人で話し合って決めるほうが私はよほど良識が通りやすいと思います。さらに、今紛らわしいものとして、自由主義の国家(現自民党政権)による「デジタル化」では、国民の安全(国家による悪用や漏洩やなりすまし被害対策)よりも国民の個人情報収集が優先され、全体主義の抑圧の道具になる可能性すらあります(民主主義では反対に国民の安全、信頼の構築が第一になります)。

 自由主義体制下では独占によって、本来は公の権力がしばしば私物化され「隠蔽」が起こり、つまり「透明性」が毀損されますが、これは民主主義とは違う自由主義であることの一つの目印となります。

 いわゆる極左のように権力を完全否定する無政府主義は言うまでもなく闘争的、暴力的なものは、社会の安定を否定しているので完全に自由主義です(右とか左とかで考えると見誤ります)。

民主主義(「大きな政府」)とは
 自分たちの社会を自分たちで運営すること(主権者として)であると、まずシンプルに定義します。

 「自分たちの」が重要で、これは社会(富や社会資本)を「共有」するということ、「自分たちで運営」は権力も「共有」していることが前提になることを意味します(観念的なだけではなく、実際に例えば、比例代表制により権力の独占を抑制、所得累進課税などにより所得の再分配を行い富の独占を抑制など具体化されます)。つまり、独占を容認しないということであり、民主主義が社会の安定維持を重視する点も併せて、自由主義とは根本的な価値観として相容れないということになります。そして、「共有」は、本来の社会主義と同根で、民主主義は「大きな政府」の政策であり、安心が消費を活発にし経済成長を生む政策です。自分たちの社会の安定維持のため、自分たち自身で、「話し合い」と「合意」によって「自由を制限」します(民主主義だから自由という訳ではありません)。社会主義と同根ということで、本稿では北欧やニュージーランドなどの社会民主主義をもって「民主主義」と呼びます。非常に狭義と思われるでしょうが、この項の冒頭のシンプルな一文から導かれるとおり、根本的な価値観の違いからきていますので、ここで線を引かないと訳がわからなくなります。「透明性」は「共有」「民主主義」を支える不可欠な要素です。衆愚を伴いやすく独占を生み出す多数決が民主主義を破壊するのに対して、「根回し会議」のほうが、個別では「透明性」「話し合いと合意」があるため、はるかに民主主義に近いです(特に日本人は同調圧力のような「空気」による支配、つまり強者優遇や気に入らない者への激しい攻撃など自由主義が暴走しやすいため、個別にやるのが一つの知恵だと思います。しばしば悪いもののように扱われますが、当事者間で情報が共有されていて、悪いことを隠すものでなければ私は自由主義の「隠蔽」とは違うと思います。ただし、公的なものとして透明性が必要な場合は一定期間後にオープンにする努力は必要でしょう。)。
 260年も続いた徳川幕府は、権力の集中を避け貧民救済や公共投資も行う「大きな政府」的な体制だったと思います(自由主義を抑制し社会を安定させたから長く続いたのだと思います)。

ポピュリズムはどうやって生まれるか
 生まれやすい環境とは 
① 小選挙区制 
 勝ち負けを明瞭に決める制度、勝者総取りの独占を生む極めて自由主義的な制度です。一人が一候補に投票し、一つを選ぶ単記非移譲式投票という多数決のことです。勝てばより強い独占的な権力を手にし負ければ議席はなく次の選挙まで発言権を失います。このようなオールオアナッシングの制度なため強烈な闘争を生み、なんとしても勝つために平然と嘘をつき(勝てば大きな権力を手にできるので強権で抑圧すればいい、そもそも国民の忘却能力の高さは極めて好都合で嘘のつき放題となり)、大衆迎合(つまりポピュリズム)をやることになります。自由主義に傾く上に、嘘により「透明性」は壊されますので、単に死票が多いということを超えて民主主義からは遠ざかり、民主主義は破壊されると言えます。
② 自由主義政策そのもの
 自由主義政策は放任政策でやりたい放題が起こるため必ず不満を生み、その不満を媒介、エネルギーにして自励的にさらに自由主義は増殖します(例えば、改革しろという声がますます強権を求めてしまうなど)。まさに、そのメカニズムにつけ込み「不満を焚きつけ煽る」タイプの扇動型ポピュリズムが起こります。
 また、近年は自由主義に対抗し、上記の民主主義を掲げる「左派ポピュリズム」と言われるもの(米国のサンダース、日本の「れいわ新選組」など)も現れていますが、これが衆愚となるか(「ポピュリズム」と言えるのか)どうかはまだよくわかりません。攻撃性を増せば、また理性を失えば自由主義に同化してしまいかねませんが、どうなっていくか未知です。
③ 国民性
 自由主義を後押ししやすい国民性も加速要因となります。つまり、不安や怒りを煽られカッとなりやすい性質ではより簡単に理性を失い熱狂的にポピュリズムを後押しします。トランプ支持者など。
 多くの日本人はまさにそれに合致します(遺伝的にセロトニントランスポーターが少ないタイプが圧倒的多数で、恐怖や不安を感じやすく、私の仮説ですが、それを取り除こうとする自己保存的反応として「強者に靡く」「自分を(少しでも)不快にした人を激しく攻撃する」反応が起こります。自己保存なので思いやりがなく無責任、冷酷です。同調圧力(「忖度」や「見て見ぬふり」など受けるほうも、圧力をかけ攻撃するほうも)がその代表例で、いじめは同調圧力そのものです。その強者優遇と攻撃性、そして無責任さ冷酷さは自己責任主義となり自由主義そのものと言えます。さらに自己保身による無責任さは責任転嫁という自己中心性、「強者に靡く」も含めると他者依存となり、民主主義の自治精神を非常に生みにくいと言えます。日本では大多数にこの傾向(「強者に靡く」)があるため、小選挙区制では独占とその他の混沌にしかなりません。米英ではトータルでは日本ほどにはこの自由主義的国民性が濃厚ではなく二大政党が成り立つと考えます。)。「空気」の支配という同調圧力は全体主義を生み出しやすい性質(国民性)です。全体主義は独占の極限で自由主義であり、ポピュリズムは自由主義とほぼ同等なので全てつながっています。
④ 足切りをしない比例代表制
 見落としがちな例として、ナチスを生んだケースです。政党名簿式比例代表制で小さな政党を制限しない場合、乱立による混沌(争い)という自由主義の状態を生み、混沌に乗じてポピュリズムにより合法的に権力を掌握する者が現れます。比例代表制でも一定規模以下の小政党を阻止して混沌を生まないようにしないと自由主義を生じるということです。今混乱しているチュニジア情勢もこれが一つの要因ではないかと思います。せっかくの民主的な政党名簿式比例代表制も台無しとなります。政党名簿式比例代表制には阻止条項は必須であることが広く世界に認知されるべきです。

日本の自民党は明らかに自由主義の政党です(つまり民主主義の政党ではありません)
① 新自由主義「小さな政府」を頑なに堅持
② 濃厚な国粋主義である(2012自民党改憲案では、「公共の福祉」(民主主義)を「公の秩序」(国家権力支配)に、「個人」を「人」(個を否定する全体主義)に。極めて要注意!!)。国家第一主義(国家主義)という全体主義が、民主主義の「公共」や「公益」に偽装して浸潤してくるということで、現実に今も起こっています(自民党総裁選の高市氏の主張がその現れです)。要するに「お国(抽象的な権威)のため」を「みんなのため」だと巧みに思い込ませるわけです。国家が第一ということから想像するのは、極論すると国民が誰一人いなくなっても国家があることを信じ満足するという相当危ない考えです(戦中はそうでしたし、今も国粋主義の議員の象徴的な行動があります。全体主義は同じことです。自由主義もこれにつながっています。そして、どこまでご本人が心酔されているのかは存じませんが、国粋主義の主張を掲げる方が与党総裁選の候補者となり一定の支持を集めています。安倍氏もそうだったのでしょうが、国粋主義に一定の支持があり大きな勢力になっているようだということです。戦後のアメリカによる統治で、「日本国憲法」など一旦は民主主義がもたらされましたが、本国の反共政策に基づく転換「逆コース」によって戦中戦前の指導者が赦免され、アメリカの自由主義と結びついたのが自民党のルーツですから、戦前からの自由主義、国粋主義とは切り離せないわけです。もう一つ、株価など短期の(自由主義の)利益で儲ける勢力(財界)の支持を受けているであろうこともおそらく外せません。)。国粋主義つまり国家主義と、民主主義の「公共、公益」との根本的で大きな違いは、本稿の自由主義と民主主義の違いがわからないと見分けがつきにくいと思います。「公共、公益」の言葉をそのまま使われたら、それが偽物だとは気付きにくいです。マスコミも政治家も区別がつかない人が大半です。御用心!!
 全体主義は自由主義の「独占」の極限であり、国粋主義は自国優位思想と国家第一主義で、国家第一主義は全体主義です(つまり国粋主義=全体主義=自由主義)。国粋主義の自国優位思想は都合の悪い歴史に蓋をし、つまり社会問題の「共有」を拒絶し放置するため、国を衰退させると言えます。記者会見や国会答弁で「当たりません」を繰り返し、問題の「共有」を拒絶する政府のありようも同じで、富や権力や自由は独占するけれども社会問題の「共有」をしない自由主義は社会問題が放置され国の衰退を招きます。
 つまり、自民党がいくら言葉で「民主主義」と言ったところで、自由主義が濃厚な(全体主義も視野にある)政党なので本来の民主主義にはなりようがないわけです(いくら民主主義を求めても党の根幹の思想なので変わりません)。「美しい国」と言いながら自由主義は人のモラルの低さを引き出しますから「賤しい国」になり、「1億総活躍」と言いながら「小さな政府(強権と放置)」の政策では人はスポイルされます。「国民を守ります」と言いながら国粋主義は国家が第一で国民は二の次、極論すればなくてもいいという危ない思想です(戦中は実際そうでした。今も国粋主義の議員の象徴的な行為があります。)。言っていることとやっていることが常に逆という極めて醜悪な政権がこの国を動かし続けているということです。



●メルケル氏引退で思うこと、そして、日本人は比例代表制くらいにしないと二大政党にもならない(ならなかった)のではということ

 メルケル氏引退については、極東日本に住む一個人の私でもとても淋しい気持ちになります。
 「サンデーモーニング」(TBS 2021/9/26放送)の「風をよむ」でメルケル氏引退について取り上げ、メルケル氏の言葉として「民主主義を支える選挙には勝ち負けがあるが、勝者には品位が必要(番組で見ただけでメモをしたわけではないので、正確な再現ではないかもしれません)」というものを紹介していました。
 ヨーロッパの良心と言いたくなるようなメルケル氏でも、そして比例代表制を行うドイツであっても、大連立政権のドイツであっても「民主主義が勝ち負けで支えられている」と言っています。なかなか考えさせられます。メルケル氏は中道右派政党ですから、自由主義寄りだからでしょうか。しかし、中道右派政党と中道左派政党が拮抗し、近年は他の勢力も台頭し、日本とは違い独占がない状況が、おそらく比例代表制により維持されています。つまり、日本のように勝者による(不当とも言える)独占とはならないので、メルケル氏の言う「勝ち負け」は日本とは違ってもう少し健全なものかもしれません。これまで何度も言及してきた日本人の国民性(前述)を考えると、日本も小選挙区制でなく比例代表制にしたほうがむしろ二大政党が実現する可能性もある(あった)のではないかとも考えました。今は自由主義がずいぶん濃縮されて野党支持率はかなり低いですが。もちろん多党乱立のリスクはあるでしょうから阻止条項は必要でしょう。しかし、政党側の候補者調整の必要も有権者の戦略的投票の必要もなく、素直に政党への投票ができます。人に投票する要素を入れるなら「並立制」でなくドイツのような「併用制」(比例代表制で議席配分)にすればいいと思います。
 メルケル氏は、難民受け入れという人道、博愛の行き過ぎ(?)が自国民を守ることとのバランスを欠き(?)引退となってしまいました。人道、博愛に行き過ぎがあるのかという話ではありますが、現実にはこれに対して国民の一部の不満を生み、不満は自由主義を濃縮しますから、極右を活性化しました。


●池上彰氏の「比例代表制は少数派の意見も国会に反映させるため」という説明の罪深さ

 「池上彰のニュースそうだったのか」(tvAsahi 2021/9/26放送)は選挙についての話でした。
 その中で、日本の比例代表制についての説明が、仕方がないのかもしれませんが、それにしても残念でした。
 死票をたくさん出す小選挙区制の欠点を補い「少数派の意見を国会に反映するため」に比例代表制が入れられたという池上氏の説明です。今の「日本の」という条件なら「小政党の反対を踏まえ、とってつけた比例代表制(並立制)」そのままの説明です。比例代表制というものの説明としては全く不正解だと思います(第二党、第三党を少数派と言うならそういう言い方もできなくはないかもしれませんが、「少数派」という言葉にはもっと小さな政党のイメージもあります。そして何より「少数派」を嵩上げする意図はなく、より「そのまま」に有権者の意思を反映させるのが比例代表制ではないかということです。)。したがって、池上氏の説明の問題の一つは「比例代表制は少数派優遇、それなら要らない」という偏見に直結してしまいかねない点です。さらに全く逆に、足切り(阻止)条項のない比例代表制は乱立による混沌を生み、そこに乗じてポピュリズムを発生させかねない(ナチスの例)という意味では、「少数派を生かす」も節度がないと問題となり、ドイツなどでは阻止条項付きの比例代表制になっています。つまり少数派を生かすこと自体が本来の比例代表制の本旨ではないということになります。あくまで有権者の意思をできるだけ正確に議席に反映することです。そして、小選挙区制がもたらすような一党支配の状況はできる限り回避し、嫌でも連立を組み話し合って妥協点を見つけるような政治を実現することでしょう。池上彰氏の説明は比例代表制の正確な理解を妨げていると言えます。非常に罪深い説明で残念に思いました。
 むしろ、番組内で皆が笑って棄却した、堀田茜さんが直感的に書いたかもしれない「政党の支持率が分かりやすいから」のほうがよほど本来の比例代表制の説明に近かったです。政党の得票に従い議席を比例配分するのが政党名簿式の比例代表制なのですから。目的は有権者の意思を無駄にせず正確に代表させることです。議席の一部分だけにこれを適用する日本の制度(「並立制」)では、この目的が反映されているとは言えません。死票は依然としてたくさん発生します。「とってつけた」に違いない制度です。したがって、日本の衆院選の「並立制」は実質的に小選挙区制です。池上氏がそこまで突っ込まないことが非常に残念で、間違いが拡散することを憂えます。

 

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