「守る」か「攻める」かの二択だから拮抗?情緒的国民性、米国と日本

↓同調圧力に関する新しい記事
「北欧の文化Lagomの幸福と対照的な日本人の同調圧力による極端さ」2021/12/15
も参照してください。今、本稿を読むと稚拙な部分もあります。(2021/12/17追記)


「守る・理性・民主主義」(社会民主主義)か「攻める・情緒・弱肉強食」(現在の保守主義)か

 アメリカ大統領での各州の結果が、かなり正確に拮抗していたのは、扇動、デマなどもあって情報の真偽不明性のために判断に迷った人が実際には多かったからではないかと以前書きましたが、おそらくそう単純でもないでしょう。二大政党が定着しており、それぞれの支持がある程度安定していれば単純なコイン投げとは違うからです。そこで、二大政党のうち共和党が「保守」と言われることから再度考えてみようと思います。併せて日本の現状についても考えます。以前書きました「理性の国」、「感情の国」の再考でもあります。
 「保守」の概念は、古来から様々な議論がなされ、欧米でも日本でも変遷があり、意味するものも状況により違いがあり一様ではないようです。

 

 Wikipedia「保守」(※1)を参考にすると「保守とは、もともと近代的な理性主義(人間の理性を信じる立場)に対抗し、伝統や経験知、秩序を重視し漸進的変革を主張する立場である」ということがまず根本にあるはずです。しかし現状は、自由主義というものが結びついているために、保守と呼ばれる勢力の政策には「守る」とは全く逆のことが目立っているように思います。「守る」のイメージが現れているのは「過去の栄光を取り戻せ」という懐古趣味的な部分と支持者が起こす(保守主義派の規範を守れ)という強い同調圧力の部分くらいです(こちらは当然自由とは矛盾)。これは現在の日本の自民党も同じだと思います。
 「守る」ということに関して言えば、むしろ保守主義の傾向とは現在対照的と(私には)思える「社会民主主義」の国々のほうが、高いパフォーマンスを示しているように思えてなりません。社会民主主義とは、Wikipedia「社会民主主義」(※2)を参考にすると、資本主義経済がもたらす格差、貧困の解消を唱え、議会制民主主義を通して穏健な改良を目指す社会主義思想の一つです。昔からある社会主義、共産主義とは違います。
 格差拡大を放置すると、働きたくてもこぼれ落ちちたまま再び働くチャンスを掴めない人をたくさん生むことになり、格差や貧困を放置せず人々が再び社会参加できる社会のほうが、人材を無駄にせず社会の潜在能力をより引き出すことにつながるため、「高いパフォーマンス」は当然の結果と言えると私は思います。人の能力は環境により引き出されるものです。

 そこで、現状で顕在化している特徴から、保守主義を「攻める・情緒・弱肉強食」と表現し、社会民主主義を「守る・理性・民主主義」と表現してみることにしてみます。これは、以前書いた「理性の国」「感情の国」に対応します。それぞれの特徴・傾向を再び思いつくまま列挙しました。


 

「守る・理性・民主主義」(社会民主主義)の特徴・傾向

人権を守る(平等主義)、(庶民の)生活を守る(大きな政府、富の再分配→高税率高福祉)、民主主義を守る、憲法を守る(憲法が行政権力を縛る実質的法治主義)、市場経済と政府の介入の併用、選挙は比例代表制型→合意形成・話し合い型政治、理性的科学的(プロテスタントの影響など)→(未来志向型)、他者の成功を喜べる、政府への信頼

 

 

「攻める・情緒・弱肉強食」(現在の保守主義)の特徴・傾向

人権・生活の保障よりも競争(小さな政府、不公正な競争、覇権主義を含む)、新自由主義(ネオリベラリズム)、勝った者がますます得して栄える弱肉強食格差拡大社会(平等よりも格差社会、富の極度の集中、家畜の如く収奪され支配される貧民被支配層の創出)、差別分断社会(差別、格差が固定化し放置される)、グローバル資本主義(新自由主義ネオリベラリズムの世界への展開)、本来は英米法が唱えたはずの「法の支配」や本来は保守が大切にするはずの伝統や経験知が軽視され人治主義に近くなる(半独裁~独裁)、選挙は小選挙区制型→独断型政治→強権抑圧政治→市民の分断、科学よりも感情・情緒が意思決定を左右する(カトリックの影響など信じやすさ、同調圧力(恐怖)への弱さ)→扇動(デマ、誹謗中傷、レッテル貼りなど)と好相性、過去の栄光への固執・懐古趣味(古き良き〇〇を取り戻せ)、勝ち負けが重要(他者の成功が許せなくなる)、政府を信用しない、(保守主義派の)規範を守れという強い同調圧力が支持者から起こる

 


 次に、これらについてそれぞれの傾向に該当する国、日本の政党、アメリカの政党を分けてみました。「社会主義とは違う」という反論はあると思いますが、特徴、傾向の話として便宜的に分けました。
 なお、中国は民主主義を守る必要がなく明らかに覇権主義であり「攻める」に分類します。この特徴による分類なら、もはや社会主義、共産主義を標榜しているかどうかは関係ありません。
 トランプ大統領の自国第一主義は一見するとグローバル資本主義と矛盾するようですが、これは覇権主義が露骨に現れたものではないでしょうか。競争は競争でも、公正で自由な競争とは限らないことを意味しています。

 

 

それぞれに該当する国
(守る・理性・民主主義)
北欧諸国
ドイツ
======
日本
アメリカ
(攻める・情緒・弱肉強食

 

 

日本の政党では
(守る・理性・民主主義)
共産党?
立憲民主党? 
====== 
自民党、維新の会
(攻める・情緒・弱肉強食)

 

 

アメリカの政党では
(守る・理性・民主主義)
民主党?
======
共和党
(攻める・情緒・弱肉強食)


 守るか攻めるかの二択と考えるなら、大統領選挙で結果が拮抗するのも肯ける気がします。簡単に答えが出ない選択肢です。これが二大政党に対応しているなら、簡単に答えが出ない要素も合わせ持っているがために、そもそも二大政党への支持も拮抗していると考えられます。
 人は社会的動物であり、人の生存欲求は社会に対して「安心」を求めるため基本的には「守る」側に(圧倒的ではないにしても)傾くと思います。トランプ大統領の誕生の際は、「古き良き」懐古の部分が「守る」要素と認識されたのではないでしょうか。

 朝日新聞に面白い記事がありました。2020年11月21日付けオピニオン&フォーラム「耕論」の「トランピズム 続くのか」の中で、宗教研究者中村圭志さんの記事です。抜粋すると、

「トランプ現象は宗教に似ています。」
「トランプ氏には、世界各地の神話に見られるトリックスター的な性格もあります。うそをついたり、人をだましたりするけれど、結果的に人々に恩恵をもたらす。虚偽のツイートを連発しても支持者が離れないのは、トリックスターとして期待しているからかもしれません。」
「米国は開拓によってゼロからつくられた国です。人々をまとめてきたのが教会で、宗教による団結が正当性を持っている。」
「自己実現できなかった人たちは、成功した人たちへの怨念を抱かざるをえない。それをすくい上げた「救世主」がトランプ氏です。」
「先進国では珍しく宗教の影響力が強い米国社会には「信じやすい」風土があります。さらに競争社会で、宣伝やイメージ戦略の手段が極度に発達しています。」
「トランプ現象は、衰退していく宗教の最後のあだ花のようなものになると思います。」
 とありました。

 宗教の影響を「守る・理性・民主主義」「攻める・情緒・弱肉強食」の特徴の中にも書きましたが(以前から当ブログでも書いていました)、やはりそういう見方はあるのだなあと自分の思っていたことの裏付けがとれたような気持ちになりました。


日本社会の現状
 

 さて、現在の日本ですが、菅義偉総理は、新自由主義の権化と言われる竹中平蔵氏や不効率な中小企業を潰せと言っているデービッド・アトキンソン氏をブレーンとしており、安倍政権の継承というよりも小泉政権の継承の様相です。影響を受けるとすれば、格差拡大はますます深刻化すると思われます。経済指標だけが良くなって庶民は貧乏になっていったあの時代、拍手喝采しながら大企業や資本家に富をむしり取られていく時代が継続します。正社員(無期雇用)という概念は無くなり国民総非正規雇用の時代が到来する可能性もあります。現在の日本は紛れもなく「攻める・情緒・弱肉強食」の国の一つです。小選挙区制がこれを加速しました。政府は、実際にやっていることとは真逆のスローガン(ただし、抽象的で評価が難しいもの)を掲げることさえします。安倍政権で顕著でした。菅義偉総理でも同じことが起こるのではないでしょうか。

 

 もう一つ、デジタル化により、国民が管理監視される社会が到来する可能性があります。利便性は表向きで、実際は恐ろしいことが進行するかもしれません。中国、香港と同じ世界が間近ということになります。同調圧力どころではない抑圧が始まるかもしれません。

 

 効率が最優先され、多様性が排除され、同調圧力の蔓延する社会は弱体化するでしょう。と言いつつ、では中国はどうなのでしょうかとなってしまいます。結局わかりません。以前、アオモンイトトンボの研究で、メスの色の多様性が(オスからの識別の点で)非効率にも関わらず、種の維持存続に役立っているとされる例を紹介しました。

 

 「#竹中平蔵をつまみ出せ」のTwitterデモがトレンド入りしているそうです。

 日本にはアメリカのような宗教的な背景は考えにくいですが、日本には中国では廃れた儒教の文化がありました。明治政府は儒教の都合のいいところだけを取り出して天皇による「教育勅語」として統治に利用したくらいです。戦争でも利用され悲劇を生みました。本来、儒教には、情緒と理性による規範がともにあると思いますが、統治に利用される場合、都合のいいところだけが使われます。

 

 

 島国日本は天然の要塞であると同時に天然の監獄とも言えます。逃げることのできない国土の中で土地に縛り付けられ、村八分にされたら生きていけない環境がありました。うっかり本心を漏らしたら村八分にされかねない環境では、曖昧に穏便に、そして同調圧力を受け入れ柔軟に合わせる生き方、処世術のようなものが文化として染みついてきたのではないかと思います。そして、同調圧力への恐怖とともに「巻き添えは御免」という弱者への非常な冷たさも染みついたのでしょう。これは同調圧力への弱さと同調圧力の伝染力(他者の抑圧)を併存させます。封建制度と秩序を大事にする儒教はマッチし受容されたのではないでしょうか。しかし、「仁」と「冷たさ」には矛盾を感じます。

 2020年11月21日の記事「SNSは同調圧力を加速するか」で引用した新聞記事の中に、今の若者の声として「独裁的な政権になると言われても、今はそういう時代なんだと受け入れる」というものがありましたが、まさにそれ(同調圧力の受容)で、SNSの影響が考えられます。戦時中は、逆らうこともできない「お国のために命を捧げよ」という同調圧力を受け入れ、今は会社、同僚からの同調圧力により命を捧げてしまう過労死が頻発する時代です。

 

 日本人はまじめで勤勉という自画自賛がよく聞かれますが、こうして考えると、同調圧力に屈してしか生きられない悲しい性質なのではないかと思えてなりません。もちろん、自発的な勤勉さを発揮される方々はおられると思いますが。

 

 もう一つは、さきほどの儒教文化も関わっている点があります。もともと人の徳目である「仁」の表現として「礼」がありました。礼儀は、同じ価値観、規範を共有していることを示すものでもあります。本心を見せないために腹の読み合いが必要な日本社会では重宝したに違いありません。礼儀の形式化がある一方で、「礼儀=気持ち」という本来の概念も生き残っていると思います。よく、ワイドショーなどで、政治家や何かの渦中の人に対して、「(私たちや当事者を思いやる)「気持ち」を示して欲しい」、「思いやる一言を言ってくれれば納得できるのに」という声が上がることがあります。明らかに感情を求めています。「仁」の心を持っているのかという追及です。これも一種の同調圧力です。他の言語でも相手を気遣う丁寧な表現というものがありますが、それとは少し違うように思います。一言の有る無しで許すか許さないかを左右するというのですから「感情」には千金の価値があるということになります。

 

 感情を求めるものにはさもしいと感じるものもあります。選挙などにおいて政治家に対して「もっと心を動かして欲しい」というものです。私には「高揚という快楽」をねだっているように見えてしまいます。対価として「応援する」というのかもしれませんが、それは違うと思います。民主主義において、自分達の代表、自分達のことを決めるのにそういうものはどうかと思います。さきほどのような「仁」の心を持っているのか見せよというならわかります。
 「高揚をねだる」という見方をしなかったとしても、例えば、音楽に高揚を求めるのは、音楽が感情を表現する著作物であり、通常は現実生活と離れた癒しであったり、踊るためであったり、民族の団結を歌うものであったり、生活の中での融和であったり、そういうものだと理解できますが(ただし、音楽の高揚が政治的に利用される危険はあります)、政治に対して最初からそれを求める(というより許可する)のはやはり「筋違い」「危険」なことに思えます。なぜなら、そういう態度が、「現実問題」として、劇場型政治、ポピュリズム、扇動政治を招き入れ、そこではデマや誹謗中傷も飛び交い、熱狂による同調圧力の拡散が起こり、挙げ句の果てに、さもしい政治が現実に行われ庶民は苦しむことになるからです。さもしい要求にはさもしい政治がやってきます。

 

稚拙な文章を読んでくださりありがとうございました。


(参考)
※1:「保守」フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/24  10:57 UTC 版)https://ja.wikipedia.org
※2:「社会民主主義」フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/29  01:17 UTC 版)https://ja.wikipedia.org