北欧の文化Lagomの幸福と対照的な日本人の同調圧力による極端さ


 中庸とは、おそらく「ちょうどいい」を「他から圧力を受けず自ら適度に決める」ことだから難しいのでしょう(孔子も「得難い」最高の徳と言ったように思います。或いは私見ですか、同調圧力の強いモンゴロイドだから「難しい」と感じたのかも。)。社会民主主義の北欧、スウェーデン人のLagomという価値観も「少なすぎず多すぎず」と説明されますが、個人主義が根付いている国でもあり、おそらく「ちょうどいい」を「他者と比較せずに自分で無理のないように決める」ということで、中庸と同じなのでしょう(それを互いに認め合う社会民主主義の環境も重要なのだと思います)。何も決めないことや中途半端のような(他者依存の)無責任はもちろんのこと、玉虫色の曖昧さ(混沌)とも違うと思います。「決められない」も「決め過ぎる」も中庸とは反対の「極端」という低モラル(無責任)であり、これは同調圧力により起こります。なぜ、同調圧力が強いと中庸が難しく極端になるのか、そして極端はなぜ害があるのかについては本稿の内容からおぼろげながらわかるのではないかと思います。


 前の拙記事「10年前のNHKスペシャルの偏向 それに気付く必要がある」から、特に重要なポイントを取り出すとともに、たまたまテレビ番組で聴いたスウェーデン人に根付いているという「Lagom(多過ぎず少な過ぎず)」という考え方に「やっぱり」と思いましたので、少しだけ取り上げます。
 Lagomはスウェーデン人の価値観そのものだと言われます。Lagomで検索すれば、ロハスとか北欧スタイルのおしゃれな記事もヒットするので、こういう内容と取り合わせる人はあまりないでしょう。hygge(デンマーク語で「心地よい空間」「楽しい時間」)とも通じるという記事もありました(やはり北欧です)。スウェーデンと言えば、私は指揮者のヘルベルト・ブロムシュテットさんが大好きです(94歳というご年齢ですが、年齢を重ねるほどに演奏が素晴らしくなっていく感じがします。今年の秋のN響定期(3回)が先日まで3回にわたりクラシック音楽館で放送され、ますますそう感じました。ブロムシュテットさんは宗教上の理由で完全菜食主義者と聞きます。ブロムシュテットさんからは「幸せ」を感じます。)。それから、本ブログの自然観察の記事の学名で度々登場する「分類学の父」と言われる植物学者カール・フォン・リンネはスウェーデンの方です(昆虫などにもリンネ命名はあります)。身近な植物にもリンネや弟子のツンベルク命名のものが多いです。植物においては、例えばイチョウ(Ginkgo biloba L. (1771))の「L.」のように1文字で命名者を特定できるのはリンネだけです。カバー画像にあるトゲチシャ(Lactuca serriola L.)もマルバヤナギ(Salix chaenomeloides Kimura)の属名ヤナギ属(Salix L.)もリンネ命名です。

 スウェーデン人の気質は日本人と似た部分もあり(本音と建て前を「大事に」し、シャイで、争いを避け、相手への配慮や、シンプルさや自然を生かす美的感性など)、ヨーロッパの日本と言われることもあるようですが、幸せの国と言われる北欧の国々と日本はかなり違うように思います。スウェーデンでは個人主義や平等主義が根付いているという点は大きな違いです。その違いを生む核心部分が、日本人の同調圧力と、スウェーデン人のLagomに違いないと思ったわけです。
 Lagomは価値観で、同調圧力は生理作用に近いものですから、並立させるものではないかもしれませんが、影響力は同じくらいあるように思います。スウェーデン人に個人主義があるということは、「争いを避ける」は、日本人の同調圧力のように恐怖に支配され自己保身のため争いを避ける(行き過ぎた自己統制に近いのかも)のとは違うのかもしれません(例えば、個人を尊重するがゆえに争いを避けるのなら同調圧力とは全く逆です。恐怖に支配されている場合は「見かけ」の平和で、恐怖により激しい攻撃性が導かれることもあります。)。仮にスウェーデン人にも同調圧力があったとして、宗教とか(北欧には個人主義のプロテスタントが多い)、社会的な運動によってそれに打ち勝つ個人主義や平等主義の文化を手にしたのだとしたら、日本人にもできるかもしれないという希望が湧いてくるのですが(しかし、北欧の「助け合い」の文化、つまり社会民主主義的な文化はバイキングの時代から既にあったといいますから、もともとなのかもしれません)。なお、平等主義も「極端」を避けることか大切なのかもしれません。
 残念ながら、もしも遺伝的な違いに起因しているとしたら、無いものねだりになってしまうわけですが、せめて、かつての戦争のような過ちを繰り返さないことはもちろん、現在の経済の低成長、国力の衰退のような状況なのか、自分たちを不幸と考えがちな精神なのかわかりませんが、これらを解決するヒントくらいにはできないだろうかと思うわけです。日本人の同調圧力は遺伝的な要因は十分考えられます(セロトニントランスポーター)。せめて、これ(同調圧力)をどうコントロールするかを考えていかないと、社会の荒廃は止まらないと思います。

 社会民主主義の北欧で行われている比例代表制(政党名簿)にしても、デジタル化にしても、ただ表面的にそこだけを日本で真似しても上手くいかないでしょう。比例代表制は、本稿にも書いている「極端(一強、独占)」をできるだけ避けて話し合いと合意による政治を誘導するもので、さらに混沌という極端を避けるには阻止条項も必要です。小選挙区比例代表「併用制」は基本的に全体の議席配分が比例代表で決まり、人を選ぶ小選挙区制が加味されるものですが、日本の「並立制」では比例代表制が部分的に適用されるので、一強を避ける機能が無く、なおかつ小選挙区制の歪みを補正するかのような本来の機能と違う使い方がされており、意味が不明です。小選挙区制は、短い選挙期間で有権者が政策を理解しないまま一気に勝敗を決め、あとは勝者が独断的な運営を行うという目先の効率最優先となり非常に自由主義的であり、「決め過ぎ」の「極端」、間違いを起こしやすいと言えます(資本主義支配の政治で国民は不満を持ちやすく政府への信用も低めになります)。デジタル化には国民と政府の信頼関係が非常に重要で、社会民主主義だからこそ成功すると考えられます。社会民主主義の透明性、話し合いと合意の納得感は政策の実効性も高めると考えられます。やはり、根底にある社会民主主義的な文化と一体となっているため、そこも合わせて入れないと、同じ効果は出ず、かえって弊害を生む可能性すらあります。



 私は、前の記事でも書いていますが、同調圧力に由来する「極端」は低モラルで無責任で有害だと考えます。「決められない」と「決め過ぎる」は正反対のようですが、「極端」という低モラル(無責任)としては同等です。それは同調圧力の特徴とつながっているからだと思います。全体主義も英米の自由主義も実は同質です。
 前の記事で取り上げたNHKの番組(過去のNHKスペシャルの再放送)の解釈、「意思決定ができなかかっために太平洋戦争を回避できなかった」(これも前の記事に書きましたが違う可能性もあります)のだから「独裁のほうがいい(かもしれない)」と考えるのは「極端」の有害性に気付けていないということです。

 前の記事で紹介しました、2021/12/11放送の「あの日 あのとき あの番組」で再放送された10年前のNHKスペシャル(NHKスペシャル2011「日本人はなぜ戦争へと向かったのか」の最終回「開戦・リーダーたちの迷走」)の中の「独裁でなかったため(意思決定できず)太平洋戦争を回避できなかった」という陸軍、佐藤賢了の発言、認識

 別の番組「ETV特集▽昭和天皇が語る 開戦への道 後編 日中戦争から真珠湾攻撃」(内容は昭和天皇に関する第一級史料「拝謁記」「百武三郎日記」から)[Eテレ] 2021年12月11日 午後11:00 ~ 午前0:00 (60分)放送において紹介された、昭和天皇の「全体主義がいいのか英米のやり方がいいのかは大変難しい」というお言葉(回想)、具体的には(「拝謁記」1953.10.1から)

「個人の自由がないのは言語道断だけれども、物が着々進むのは事実上統制の強い力で引っ張らねば上がらぬ。自由、民主といふ方向でゆくとなかなかものは進まぬ。之は六ケ(むつか)しい。スターリンでもヒットラーでもムソリーニでも、全体主義で引っ張るのが仕事は進む。英米のような思想系統のものは自由でしかも仕事が行くかも知れぬが、国によってはそれでは中々国運を急に引っ張るは六ケ(むつか)しい。之は六ケ(むつか)しい問題だネ。」

 番組の最後は、「勢い」というものは、(始めのところで止めないと)誰にも止められないものになるという話で締めくくられました。まさに、同調圧力のことではないでしょうか。

 


 「決められない」のも「決め過ぎる」のも同じだということに気付けないから、カーッとなって「決め過ぎ」を起こす小選挙区制が導入され、ますます政治は荒廃したのだと思います。これは、自分たちの同調圧力の性質にしっかり向き合ってこなかったからで、戦争を反省してこなかったこととも大いにつながっていると思います(NHKの戦争を考える番組が今後もしっかり続けられ、いつか反省につながること、同調圧力を理解し有害さに気付くことを期待します)。
 同調圧力を理解しないと日本人は過ちを繰り返し続けると思います。


(私が思う歴史上の「極端」や同調圧力の害の例)

 江戸時代の国学が、儒教や仏教を統治のための作り物で他国からもたらされたものだとして否定し強く排除し(→排除という「同調圧力」、激しさは「極端」)、日本固有を突き詰め(→突き詰めるという「極端」)、探求した末に復古神道を生み出し、それが全国に広がり、征韓論や世界征服のような考えも生み出して(→自分たちを世界の中心とする「極端」な妄想)、水戸学の尊皇攘夷思想と一体となり、明治以降の全体主義、軍国主義にもつながったこと。
 江戸時代に水戸学が起こった経緯は、水戸藩の徳川光圀が、司馬遷の「史記」の「伯夷伝」に自分の身の上を重ねて心酔したことから始まります。おそらく何かコンプレックスか、強い「恐怖心」があったためだと想像しますが、辻斬りをするなどの非行のあった光圀は、身近な人ではなく、遠い過去の異国の権威になびいて救いを求めてしまったのだと思います(→権威にすがるのは「同調圧力」の一つ)。日本式の編年体の歴史書ではなく、おそらく「史記」に倣って紀伝体の歴史書(書いた人の考えが入り込みやすい)の編纂に着手したのが水戸学の始まりです。幕末には藤田幽谷が上司の立原翠軒の方針に「不満」を持ち攻撃して党派対立を起こし光圀を信奉し(→攻撃排除と権威の信奉という「同調圧力」、対立の激しさは「極端」)、門下の会沢正志斎が過激な尊皇攘夷思想(→「過激」と形容される「極端」、権威の信奉と攻撃排除という「同調圧力」)を生み(その尊皇攘夷思想自体も党派対立を生んだ。→激しい対立は「極端」)、明治以降の全体主義、軍国主義につながりました。

 太平洋戦争開戦の一因について、前述の10年前のNHKスペシャルでは、政府の意思決定機関が、開戦回避(米国の要求に応じて満州、南部仏印から撤退するなど)の決断をずるずると先延ばしにして機を失ったからとされました。その現象は、すでにたくさんの犠牲と莫大なサンクコストを生じている日中戦争から撤退するのは、国民の熱狂や不満の状況を見ると「怖くてできない、言い出せない」ため、陸海軍が互いに相手に言わせようと押し付けあったため起こったと解釈されていました(→恐怖に起因する他者依存で無責任な「同調圧力」そのもの、「決められない」という「極端」)。国民は国家神道を畏怖する全体主義(→畏怖も「同調圧力」)や近衛文麿による扇動で(→扇動は人為的に起こす「同調圧力」)モラルを失い、戦果に熱狂し、弱腰を激しく攻撃排除するに違いない状況であり(→攻撃排除は「同調圧力」、激しさは「極端」)、新聞などメディアも政府同様に国民を恐れて、つまり売上を気にして不利な戦況を報道できなかったというものです(→恐れてできないのは「同調圧力」、一切しない「極端」)。不利な報道がないため、国民は「連戦連勝なのになぜ終わらない」という疑念、不満を持ち、「不満」は同調圧力を再生産し悪循環を招きました。

 日本人は同調圧力が強いため、こうしたことは昔から起こりやすかったと思います。

 



 かねてより、資本主義自由主義とは正反対のものとして社会民主主義を挙げてきました。資本主義自由主義や全体主義が、「極端」という低モラルの行動を引き起こす「同調圧力」が媒介し促進され得ることから、その逆である社会民主主義では中庸が大切にされているに違いないとは思っていました。孔子も「中庸」こそ得難い最高の徳であると言っていたように思います。私見ですか、モンゴロイドは同調圧力が強いがゆえに「難しい」と感じたのかもしれません。中庸は、何も決めないや中途半端のような(他者依存の)無責任はもちろん、玉虫色の曖昧さ(混沌)とも違うような感じがします。「ちょうどいい」を「他から圧力を受けず自ら適度に決める」ことだから非常に難しいのでしょう。最高のものは最悪なものと紙一重や紛らわしい部分があって間違いやすく難しいとも言えます。
 そこに、つい先日、「Lagom」というスウェーデンの習慣の話がテレビからチラッと聞こえてきて「多過ぎず少な過ぎず」と言っていたので「やっぱりな」となったわけです。思っていたことが正しかったという気持ちになりました。

 同調圧力は、恐怖心、不安、不満、場合によっては心酔から始まることから、「必要以上に怖がらない」「人と違うことを恐れない(また、違う人を許し容認する)」「足るを知る(現状を「幸せ」だと感じることで「不満」を追い出す)」「カッーとならない」「俯瞰する」「没入し過ぎない」「一呼吸して冷静になる」「テレビなどメディアで「極端」により世論を煽ったり、レッテル貼りや印象操作をしようとする動きを冷めた目で見る」などを意識的に取り入れることで、いくらかは抑制できるかもしれませんが、そのためにはできるだけ多くの人が「(同調圧力を)抑制する必要がある」と思わなければ始まりません。一人でやっても、悪貨が良貨を駆逐する如く潰されてしまいます。だから、多くの人が同調圧力と向き合い理解することがまず必要です。今のSDGsや気候変動対策くらいに、自分たちへの問題意識として宣伝されないとなかなか難しいでしょう。

 

 若い頃、職場の上司に「突き詰めるな」と諭されたことを覚えていますが、この記事を書きながら、身近な目上の人は的確な助言をされるものだ(たまたまいい上司だったからかもしれませんが)と今になって思いました。

 身近な人ではなく「遠い権威を畏怖し、すがる」時点で、もはや害を生む同調圧力と同じになるので、そういうものは人を教え導くという宗教ではありません。権威的なカトリックと個人主義のプロテスタントの違いがそれを教えてくれます。カトリックは大航海時代に世界への拡大を目論み資本主義自由主義のようなものと一体になりました。同調圧力と資本主義自由主義、全体主義は「排除と独占」でつながる同質なものです。権威にすがるものではありません。


前の記事からの「同調圧力」の説明(濃縮して比較的短くまとめましたので、読んでみてください。なお、前の記事でかなり追記修正しています。)
 

(「同調圧力」について)
 同調圧力の本質は、恐怖心など(不安や不満、場合によっては心酔も)に由来し、心理的視野を極小化し、自己保身のために一つは強者(真偽問わず「安心を与える」と言う者、見かけの安心、権威)になびき、すがる(自己決定の放棄、決めなさ過ぎ、他者依存)、もう一つは責任転嫁によって他者を敵として激しく攻撃排除する(決め過ぎ、決め付け)という両極端な無責任(低モラル)の行動を引き起こす心理作用だと私は考えます(「皆と違うことが怖い」環境そして性質というのが文字通りの中心的特徴ですが、このように分解して理解すると広範な現象が説明できます)。前者により権威になびき「皆が同じ」という「見かけ」の統制や「見かけ」の平和的状態があってややこしいのですが、恐怖に支配された「行き過ぎ」な自己統制、「自己保身」である点、そして、後者の攻撃性を対として持っている点が、「見かけ」である所以です。例えば「決められない」も「決め過ぎる」も同じ「極端」であり無責任、つまり有害です。脳内神経伝達物質の一つセロトニンに関わるセロトニントランスポーターの遺伝的に少ないタイプが大多数である日本人は怖がりであり同調圧力を起こしやすいと言えます。つまり、意識して気をつけないと常に低モラルになりやすいということです。この遺伝的タイプでは不快な刺激に対して扁桃体と眼窩前頭前野が同時に反応するそうで(以前の記事)、これが特異な行動を引き起こすのかもしれません。
 特殊詐欺の例では、不安を煽られて何も見えなくなり(嘘の)安心になびいて騙されてしまうのはまさに同調圧力、世代の格差という不満を煽られモラルを失い犯罪集団に洗脳されるのもまさに同調圧力です。詐欺にしろ政治にしろ、このように同調圧力を悪用する輩が跋扈する社会は、一方では盲目的な警戒心を育て、「協力し合う」社会を拒絶し、排除の連鎖を生むことにつながり、ますます同調圧力を促進する悪循環にもなります。同様に、社会不安が同調圧力を促進し、同調圧力がますます社会不安を促進する悪循環も起こり得ると思います。「恐怖心」や「不満」は伝染しやすく、同調圧力は伝染拡散しやすいからでもあります。「煽り」「煽られ」、煽られた人は「熱狂」を拡大させ、勢いが勢いを生み、やがて制御不能となり戦争も起こります。最初の「煽り」の段階で止める必要があるのです。「決めつけ」つまり「断言」も同調圧力性を帯びるため、聴く者の心理的視野を狭くし、伝染拡散し大衆扇動につながります。
 いじめやいじめを見て見ぬふり、官僚の忖度、差別や誹謗中傷など同調圧力は今も多く存在します。「人と違う行動をするのが怖い」環境も性質も同調圧力です。
 同調圧力は全体主義を誘導します(独裁者は「同調圧力」を煽り、「同調圧力」が全体主義を作る。しかし、いや、むしろ独裁者が無くても「同調圧力」があれば全体主義は成立する。かつて日本の戦争は国民の世論が過激となり政府を煽った。軍部だけが一方的に暴走しただけではない。)。また、小選挙区制も「決め過ぎ」という極端、低モラルを起こしやすく、「同調圧力」を刺激するため、同様の性質があります。私的所有の「排除と独占」、それを基礎とする資本主義、自由主義、「排除と独占」の極限である全体主義、自国を守ろうと他者を排除攻撃する「保守」、同調圧力はこれらを促進するのに都合がよく、これらは同類です(自由主義には争いの混沌と独占による支配という両極があります。自由主義と全体主義が同類というのは意外と思われるかもしれませんが、人権の尊重は、苛烈な自由主義ではなく、他者との調和を図りながら「個人」を第一に尊重することです。)。実際に、新自由主義を推進する政党(自民党や日本維新の会など)は全体主義を志向しています。なお、新自由主義は資本主義に支配された資本家本位の政策で、政治においても排除と独占が同時進行します。
 全体主義が「個人」を否定することにより、人間の持つ生得的なモラルを消失させ、他者を傷つけることへの抵抗をなくさせ、命を粗末にさせるため、社会を破壊する性質を持つことはこれらに共通しています(同調圧力に由来しているとも考えられます)。かつての日本でも戦争で勝つこと(=他国の人々の命を奪い、他国の領土を破壊し奪うこと)を祝い熱狂しました。また、自由主義の根幹の一つ「自己責任」には、成果を独り占めし、人が痛めつけられるのを自己保身のために「見て見ぬふり」をする同調圧力、低モラルがありますし、生活保護の固辞のような自分に向けた「自己責任」では、DVからの避難の場合などを除くと、「助け合い」の拒絶という一種の攻撃排除や、世間体を気にし世間からの攻撃を恐れ「自分を生かさない」という同調圧力に似た部分もあります(「水際作戦」のような行政の側による「自己責任」の強要の場合ももちろんあるでしょう)。
 権威(例えば「日本人はもっと凄いはずだ」という思想自体も権威になるし、その時の熱狂した国民の状態自体も権威となり、むしろ独裁者や具体的人物とは限らない点が重要)を畏怖し信奉し、権威にすがり、個人を完全否定し、熱狂とともに権威に同化していくのが全体主義です。目の前の人より権威を妄信するのは、より強いものにすがる、つまりは自分の恐怖心に従って自己保身をするのと同じで自己中心性そのものとなり、それは「協力し合う社会」の拒絶となり、そういう意味でも社会は衰退します。
 全体主義が社会主義とつながっているかのように見えるのは、民主主義がない社会主義の場合(これは本来の社会主義ではないと思いますが)は「誰のものでもある(共有=協調、共存)」が「誰のものでもない(独占=これしかダメ、「妥協」を許さない不寛容)」に簡単に反転してしまうこと、独裁者が支持を得るため実態である全体主義(つまり資本主義自由主義)と真逆の社会主義を標榜する(大嘘をつく)場合があるからです(社会主義への偏見を生んでいます。また、社会民主主義でないと本来の社会主義「共有」も本来の民主主義も持続できません。自由主義の世界の人々は「自分たちこそ全体主義と対峙している」と思い込んでいますが、前述のとおり同類で、似た者同士の争いです。ベーシックインカム、戦時下の配給などは、資本家や国家の権威の目的遂行のために国民を「生かさず殺さず」にするという場合は、社会主義ではなく全体主義だと言えます。)。
 同調圧力の傾向はモンゴロイド(遺伝的に影響を受けたコーカソイドも含め)に強い傾向があるかもしれないと私は感じます(ロシア、中国、東欧、場合によりアメリカ大陸などでの独裁の生じやすさから。なお、アフリカは勉強不足でわかりません。)。
 現行日本国憲法第13条において、「国民は個人として尊重される。」「公共の福祉に反しない限り」「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利」は「最大限の尊重を必要とする」こととされていることは、あらかじめ優先順位(「個人の尊重」が第一)を明確にしておかなければ、非常時などをきっかけに全体主義になってしまうことを防げないためだと思います。「公共の福祉」は皆で幸福を追求するため社会民主主義的に「話し合いと合意」によって決める自由の抑制であり、民主主義の肝だと私は考えますが、改憲により「公益、公の秩序」という異なる概念の紛らわしい言葉に置き換えられ、「個人」が「人」に変えられ、その結果全体主義にすり替えられないよう最大限警戒する必要があります。自由と民主は同類とされやすいですが、自由が尊重され過ぎると「排除と独占」を許す自由主義になり、個人の尊重や平等が失われ民主主義を壊すため、全体主義ではない方法、つまり社会民主主義により自由を適度に抑制する必要があるということです。私見ですが、平等主義も同調圧力の「極端」を避けることが大切なのだと思います。
 新自由主義を「まだ足りない」と追求する政党も前述のとおり全体主義を志向しているのでやはり警戒が必要です(しかも、緊縮や規制緩和は資本家を潤すだけであり、緊縮は国の運営経費を減らして資本家にまわすだけで財政は健全化せず、規制緩和は労働者からの搾取を強め、新たな独占や利権を生むだけとなります。発明や技術革新がないので長期的には成長も生まず疲弊させるだけで、経済においても全体主義と同じで、バブルのような一時的で見かけの発展をしたとしても最終的に荒廃をもたらします。「皆と違うことをするのが怖い」同調圧力の環境、性質では発明は育ちにくいに違いありません。そしてその荒廃が不満を生み同調圧力を再生産し全体主義化をさらに加速します。この政党は、極論を言って相手を怖がらせる言わば恫喝で相手の判断力を奪い自分の要求を現実的なものと錯覚させ油断させて通す手法、つまり同調圧力の悪用で躍進した人物がかつて指導し、その人物は今もコメンテーターとして盛んにメディアに露出しています。)。


その他、前の記事から

 

 「戦争は恐ろしい」と言っているだけでは、むしろ「怖い」は同調圧力に接近してしまいますし、今の政治家を批判することも(そもそも国会議員は自分たちの代表です)太平洋戦争開戦を煽ったかつての国民の同調圧力と同じことになるし(政治は歪んでいきます)、「米国や戦時の為政者」を自分達ばかりが戦争犠牲者であるとして恨むことも同調圧力そのものになるし、メンツやプライドにも根底に恐怖心があり同調圧力そのものであるし、全てに共通するのは自分達自身もその結果を生む原因に関わりを持っていないだろうかと問う意識が必要であるということです。それを問うた上で主張するべきです。同調圧力が生むのはだいたいは害です。

 ほかに教訓としては、遠い権威を妄信し、身近な目上への反抗、下克上をするのは良くないということ(陸軍、水戸学の例)、演説が巧みで世論を煽る人物を絶対信用してはいけない(近衛文麿の例)、メンツやプライド(サンクコスト効果で撤兵できなかった例)は害悪ということです。