やりきれない話 | ヤマガラ家のシーズー日記

ヤマガラ家のシーズー日記

愛犬(シーズー)との散歩や日々の出来事

今、12月13日(日)10時です。
雨がきれいに上がって いい感じに晴れてきました。
今日は夫くんが愛知県安城市のマラソンに参加するため
ワンコの散歩には行けません。なので先ほど
近所を歩いてきました。
昨日は先週行った豊田市の王滝渓谷を歩いてきました。
写真はほとんど一緒なので最後に1枚お見せします。
紅葉がそこだけきれいでした。

8日(火)私は認知で入院している伯母のところへ行ってきました。
秋口から少し忙しくて、久しぶりでした。
久々に会った伯母は、落ち着いていましたが
伯母に近づくにつれ異臭がし、隣に座っていましたが
ぼっとんトイレに何か混じったようなイヤなニオイに包まれていました。
最初は部屋が臭いのかと思ったのですが
伯母から離れたら臭わず、働いている方に尋ねたら
本人から、ということでした。

つまり、朝のいつからか用を足してから
おむつ交換がなされていないのです。
私は昼過ぎまでいたので
いつ交換されるのか、うんちをお尻にひいて
その上に座っているわけなのでした。
伯母が近くに持っていた小さなカバンの中には
編み物の材料と一緒にオムツが入っていました。

私が変なニオイがします、と言っても
オムツを交換してもらえはしなかったので
私は勝手に使用できるオムツの枚数が決まっていて
時間がきたら、それを交換するシステムだと思いました。
今入っているところは3番目の病院なのですが
2番目の所はトイレに行きたいといっても連れてってもらえず
夜は暴れるから、手を縛られて寝ているようでした。
(手首に痣がにあったり、包帯のようなものを巻いていたのです)
病院側からしたら、ベッドから落ちてケガをするといけないという
処置なんだと思います。
2番目のところは、明らかに入居者に対する職員の数が足りていないように見えました。
居室や集会室に窓がなく、外が晴れているのか雨なのか
全くわからない入院病棟でした。
敢えていえば、1つだけ、小さな曇りガラスの窓がありましたが
真っ白なその窓は、窓の形が部屋にある、というものでしか ありませんでした。
そんな環境だからか、忙しすぎるからか
ここの職員さんたちは、みんな恐い顔をして働いていましたし
伯母以外の入院者たちも、みんな暗い顔をしていました。
なので、今のところに替われて本当に良かったと思っていたのですが
伯母の生活自体は、同じであることがわかりました。
もともと大腿骨骨折で入院したので車イスだったのですが
1年経ち、補助具で歩けるようになっていて
ずっと車イスに座っているだけから、普通のイスに座って生活できるようになったのが変わったことでした。

伯母の話はあいかわらず、同じ話を5~10分ごとに繰り返すだけでしたが
だれそれに会いたい。誰々が来てくれない
というのが常に中心にありました。
そして家に帰りたい、家はどうなっているのか
箪笥をおいたままだ。着物はどうなっているだろう、と言うのです。
正直、私が知っている伯母の生活は着物を着たのは
結婚式や葬式くらいです。
それでも、たくさん持っている着物には執着があるのです。
そして、自分が今着ているものを指さして
「こんなボッコばっかり着ている。おいてある着物はどうなってるんだ?」
と言うのでした。
私が、着物を作務衣に直して持ってきてあげようか?と言ったら
何かのときに着られなくなる、と言うくらい頭が動いていました。

誰々が会いにこないと言うのですが
伯母の娘たち(私の従姉妹)は上の姉は大阪で、下の姉は岡崎の豊橋に近いところに住んでおり、簡単に会いにこれる距離ではありません。
娘のことは言うけれど、息子のことは浮かばない伯母です。
特に下の姉は嫁ぎ先がきびしくて、結婚してから1年に1度、お正月にしか
実家へ帰してくれない、という家でした。
なのでずっと会っていない下の娘のことは記憶がはっきりせず
同じ三河地方にいる私と混同することしばしばです。

伯母は今いるところが、知らない人ばかりで寂しいと言います。
誰も来てくれない、と言いますが
私が訪問した数日前にも誰かが訪ねていました。
私が伯母なのに、かなり頻繁にお見舞いに行っているのは
この伯母が、私の実家と同じ住所に家があり
結婚するまでずっと一緒に暮らしていたのと同然の関係だからです。
家こそ庭をはさんで離れていましたが、働いていた母に代わって
常に家にいる伯母は、私には祖母と同じなのです。
父方の祖母は私が小3の時になくなり、あまり記憶がありません。
母方の祖母は、母が高校生の頃に亡くなっているので、私には祖母がいなかったのです。

というわけで、伯母は単なる伯母ではなく、気持ち的に非常に近い伯母で、伯母が、私と自分の娘と混同するのも、伯母にとっても私は孫のようなものだからです。

伯母が入院するにあたって、私は「ペコロスの母の玉手箱」のシリーズを数冊読みました。それは息子さんがお母さんを介護する話でした。
最初は介護を家でしていたけれど、それだと自分の生活が成り立たなくなったので、介護施設に入ってもらって、そうしたら、お母さんのことを良く看れるようになって、仕事もできるようになり、いろんなことがよくなったということでした。伯母のところも、息子家族との同居から入院生活となりました。生まれた家とそれまですごした家に距離がないので、ずっと同じ環境ですごしてきた伯母にとっては、知らないところを受け入れる心がありません。伯母はいつも家に帰りたいと思っているようです。世話をしてくれる人を覚えることもできず、知らない人とばかりいることがストレスなようです。
それでも同居家族は定期的に行っているはずですし、伯母の兄弟姉妹が時々看にいっているのです。

伯母を見ていて、私は自分のことを考えました。私は子どもがいません。伯母と同じ立場になったとき、誰が洗濯などの交換に来てくれるのでしょうか?誰にお願いしたらいいのでしょうか?私と同じ世代は不妊が一般的になってきて、かなりの人に子供がいません。私たちはどうしたらいいんだろう?と考えます。私が伯母に会いにいくのも、伯母への情があるからです。将来両親の介護をすることになると思いますが、それも親への情があるから、しなければ、と思うからです。でも、他人へは、そこまではできないと思います。
認知という自分の頭がはっきりしない状態で、誰かを雇うことができるのか?また、その仕事を監督する人がいないのに、給与の支払いなど、どうやってやっていくのか?このあたりをどうしたもんだと思います。
伯母は誰も会いにきてくれない(覚えてないから)と嘆きますが、それでも生活は息子によって監督されています。
私のような場合はどうしたらいいんだろう?とみつからない答えを考え中です。

もうひとつ、悲しくてやりきれないことは、伯母も、他の入院されている方もおそらく同じだと思うのですが、認知で入院している人は、何も悪いことをしてきていない人たちだということです。
伯母のことだけ書きますが、93になる伯母は戦中、戦後を生き抜き、85歳くらいまでずっと仕事をしてきた人です。自分の子供を育てた後は孫を3人面倒をみてきました。ずっと家で内職をしていて、遊びという遊びをしてきていません。大阪にいる娘のところへ何回か行ったくらいだと思います。
私の記憶の中の伯母は、一日中ミシンの前に座って服やカバンなどを縫って糸まみれの姿です。
ずっとずっと働いてきて、その最後が「さびしい」と感じるところに入れられて、「家だったらわしが作るのに」と出てきたご飯を見てつぶやき、おそらく一日座っているだけで空腹じゃないけれど、時間がきたら食事をする毎日。ただぼーっと座っているだけの毎日を送りながら、体が弱っていくのを待つだけの日々を送らないといけないのか?
なんでこんな悲しい毎日を送らないといけないのか?
と、やりきれない思いがいっぱいなのです。私には伯母の面倒をみることはできませんし、いつ始まるのかわからないけれど、両親が同じようになったとき、どうにもならない思いを持って毎日をすごさないといけないのか?と思うと、両親に長生きしてほしいと思わないのです。
自分も長生きしたいとは思いません。できたら早く死にたいです。
両親より早く死んではいけないと思うので、今は健康に気をつかいます。
より良い生活を送ろうと思っています。
しかし、長生きが幸せとはどうしても思えません。

参加している太極拳の教室には娘さんを亡くした方がふたりみえます。
ひとりは、娘婿さんと同居のまま、お孫さんのご飯などを作りながら生活してみえます。もう一人の方は、娘さんが亡くなったことで、お孫さんは婿さん側にとられてしまって、会わせてもらえない、ということで、ご夫婦のみで暮らしていらっしゃいます。これもお話を聞くと悲しいばかりで、やりきれません。

長生きをするようになって、本当に幸せなのか?
いろんなことを考えるこの頃なのです。