何度か話してきたことだけど、僕の中には複数の人格がいる。





実は、誰の中にも複数の人格がいるんだけど(いるはずなんだけど)、意識が、それを一人の自分だと信じている(錯覚している)場合が多いのだ。




時代的にはまだ受け入れられにくい概念かもしれないけど、これは健全なことであり、複数の自分と協力的に生きることが、人生を好転する(問題少なく生きる)技術の一つだと僕は考えている。




目の前に対する人によって、自分のキャラクターが変わらないだろうか?




パートナーに対しているときの自分、子どもに対しているときの自分(子どもが複数いれば、それぞれに変わる)、父親に対しているときの自分、母親に対しているときの自分、上司に対しているときの自分、後輩に対しているときの自分、はじめて会った人に対しているときの自分・・・。




内弁慶ということばもある。



家庭内では、強がるのに、家庭外ではおとなしい人のことだ。





違いが微妙なことで、気づきにくいかもしれないし、その乗り換えが自然に起こるので、気づきにくいかもしれない。




突然、抑えられない怒りに乗っ取られて爆発してしまう、なんてそのわかりやすい例だ。




怒りの場合は、過去に抑圧した怒りが上乗せされる場合があるので、こんなときには、普段の冷静な自分(人格)が、たたかう自分(人格)を抑えられなくなるのだ。




たたかう人格は、「受け入れられないことを要求されたとき」に、たたかって守ってくれる人格だ。




自然な怒りは、人間関係や、それで体験することを改善してくれるが、過去の怒りの上乗せが起こることで、逆に問題をつくる場合がある。





それぞれの人格は、さまざまな出来事に対して、適時必要な対処(反応)、必要だと感じた対処(反応)によって、自分を守ろうとしてくれる。




だけど、過去の影響で、それが逆に問題をつくることもある。




多くの場合、これに無知で無自覚なため、逆に問題をつくる反応を続け、人生が混乱する。





普段(普段とは、どういうときだろうか? 何も問題のないとき?)は、「人格としての『日常を送る自己』」だ。




それはおおむね、過去に学習したことを真実と信じ、それに従う。




「人格としての『日常を送る自己』」も誤ることがある。





「過去に学習したことを真実と信じている」ので、その瞬間の自然な反応(その瞬間に現れようとした人格の対処)を、抑え込んでしまうのだ。




さまざまな人格とのアクセス能力が取り戻されると、それぞれの人格が適時必要なときに働いてくれるようになるので、問題が少なくなる。




その都度問題解決が起こるからだ。




こうして、さまざまな人格とのアクセス能力を取り戻した「日常を送る自己」になる。




この「日常を送る自己」は、人格ではなくて、無数の人格の集合体だ。





無数の人格の集合体としての自分が、適時そのときどきの人格で生きるようになり、問題解決が適時起こるので、体験する問題が少なくなるのだ。




 

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「3つの仮説」について。



 

僕(「人格としての日常を送る自己」)は、今後、内なるアーティストとの対話によって、それを発表できる時期が訪れたら、公表できるといいなと思っています。



 

長い目で見守っていただけるとうれしいです。



 

今後とも、いいねなどアクションで、引き続き、応援をお願いします。




僕の内なるアーティストに(多少非常識な)情報を共有しても安全だと、感じさせてあげられる環境づくりに、ご協力いただけるとうれしいです!