悟りは、「ある」ともいえるが、「ない」ともいえる。
「悟りはある」といえる説明と、「悟りはない」といえる説明は、どちらも条件つきなのだ。
悟りは
・「宇宙という一つの命」が存在しているだけ
・そもそも宇宙に「いいこと/悪いこと」はない=いま存在する宇宙が「宇宙という一つの命の姿」
がわかる。
だからこのとき、その人の意識には「否定するもの」が見えない。
「否定するものが見えなくなった」とき、その人は自分が悟ったとわかる。
この意味で、「悟りはある」といえる。
だが、このときこの人は「否定するものが見えなくなっている」ため、「悟っていない他者」が存在しないとわかる。
「悟った私」がいるときだけ、「悟っていない他者」が見える。
「悟っていない他者」が、存在しないとわかるので、「悟った私」もいなくなり、「悟り」と「悟りではない」もなくなり、必然的に「悟りはない」になる。
世界のどこを見ても、「悟っていない人」など存在しない。
探していた「これが悟りだ」などといえる「悟り」など、そもそも存在しないのだ。
「これが悟りだ」などといえる「悟り」を探していたのは、エゴイズムに他ならない。
だから、この秘密が解けると、「悟りを語る」必要がなくなり、「語ること」に違和感を感じるようになる。
世界のどこかに「悟っていない人」を想定しないと、「悟りを語れない」からだ。
だからといって「悟りを語らない」「語ってはいけない」ということではない。
「語り方」が変わる。
悟り以前は、「悟り」と「悟り以外」があると錯覚していた。
悟りによって、「すべてが悟り」、そもそも「悟り以外存在しない」とわかった。
こうなったことで、「世界の混乱の原因」が鮮明に見えてくる。
過去いつも僕たちを混乱させてきた「思考との一体化」だ。
そう僕たちは、常にこの「思考との一体化から目覚める遊び」を遊んでいるのだ。
これ以後、この人は、「悟り以外存在しない世界」で「悟り」と「悟り以外」があるという、「思考との一体化を促進している人たちの遊び」を、「目覚め遊びに転換する遊び」を「示唆によって遊ぶ」ようになる。