意識はその性質から、世界に対しても自分に対しても、「意識化した部分」と「意識の外に追いやった、それ以外の部分」にわけ、「分離して隠す」ことができることは、すでに話した。





 

現象世界に関係することのすべて、生まれてきて、生きている感覚や過去の記憶の重要性、過去に学んだことなどすべてを、意識から完全シャットアウトし、「気づき意識」のみを残し、それ以外感知できなくなった状態が、覚醒体験(神秘体験)だ(過去はこれを悟りと勘違いし、祀り上げてきたが、実はそうじゃない! つかみ取っているエゴイズムはこれを手放せるだろうか?)。





 

意識の抑圧能力の強弱が、覚醒体験の期間の長短に比例し、この能力の強い人は、最長で3年近くこの状態が続く。





 

過去強烈に苦しかった感情から完全に解放されるため、この期間の最中に、それが終わるなど、その意識にはけっして想像できない。





 

このため、その意識はそれを悟りと勘違いし、「私は悟った」になる。





 

このとき意識は、現象世界に関することすべてを抑圧し、現象世界の背後の「世界の本質」「世界の大元」「世界の源」のみとつながる「現象世界0%:本質世界100%」への逆転現象が起こっているのだ。





 

だがこれは意識の抑圧能力がつくる、「真実の半分」にすぎない。





 

こういう人の「これが悟りだ」「私は悟った」という言動を観察したら、これがこの人がまだ虚偽の中で迷っている証拠であることを思い出そう!





 

 

*悟りの定義を思い出そう。

 

悟りは

 

・「宇宙という一つの命」が存在しているだけ

 

・そもそも宇宙に「いいこと/悪いこと」はない=いま存在する宇宙が「宇宙という一つの命の姿」

 

がわかる。



 

だからその人の意識には「否定するもの」が見えない。

 

 

 

「これが悟りだ」「私は悟った」と語れる人は、まだ「いい/悪い」の錯覚の中に生きているため、

 

まだ「悟りが正しい/悟りではないことは間違い」「悟った私が正しい/悟っていない他者は間違い」を見ていることがわかる。





 

だから「悟りが正しい/悟りではないことは間違い」「悟った私が正しい/悟っていない他者は間違い」の言動になり、まだそれを「学ぶ→信じる」(「これが真実だ」)で教えようとするのだ。





 

 

だからこれがこの人がまだ悟りではない証拠になる。




 

悟りが起こると、「学ぶ→信じる」では「思考の盲信」をつくるだけとわかるため、この人の伝え方は、「教える」ではなく、「示唆する」に変容する。





 

「これが真実だ!」では、「新しい思考の盲信」をつくるだけなのだ。





 

「これが真実だ!」といって伝える人の語ることを信じると、さらなる混乱をつくるだけだということをしっかりと覚えておいて欲しい。





 

彼らが、はびこることができる(彼らの遊びが重宝される)理由は、彼らにだまされる人(思考の盲信を続けて、苦しむ遊びを続けたい人)がいるからに他ならない。





 

僕たちは、「目覚めを促進する側を遊びたい」ので、このことを強く認識して、先へと進もう!