関西では、

先週くらいから、

セミの鳴き声を耳にするようになりました。




ヒグラシの鳴き声を聞きに、

毎年、妻につき合ってもらって、

箕面の滝にいくのですが、

いけるタイミングが悪く、

この数年は、

鳴き声を少ししか耳にできませんでした。




今年は、

ピークにいけるといいなと思っていますが、

どうなるでしょう。




今回の記事は、少し長くなりました。




私がのんびり読むと、

5分程度でした。




お時間のあるときに、どうぞ。




*****




「闇が光に変わるとき」




私がまだ、

世界に光と闇があると信じていたときには、

さまざまなものに悪を投影して見ていました。




お隣に住むおばあさんとのあいだに

問題が起こることがありましたが、

多くの場合、私は無条件でゆるしていました。




23年くらい前からでしょうか、

お隣りのおばあさんに

老齢ゆえの痴呆がはじまりました。




その後、痴呆ゆえ問題が

より多く起こるようになりました。

(たとえば、玄関先に置いてある鉢植えの

南天の木〔生前に母が大切にしていた木〕を

折られるようなことなど)




それに対しても私は無条件でゆるしました。




あるときから、そのおばあさんは、

介護施設のお世話になることになり、

その後、姿を見なくなりました。




問題もなくなりました。




ところが、

おばあさんがいなくなったことで、

おばあさんに対しての怒りを
感じるようになったのです!




それまでは、近所づきあいを平穏にやりすごすために、

私は気づかないうちに、自分の感情を抑圧し、

問題のないよう、取り繕っていたのです。




近所づきあいを維持する必要がなくなったことで、

抑圧した感情に気づけるようになったのでした。




「他者との間に、

問題をつくったり、

荒立てないようにするために、

自分の感情を抑圧する」――。




これは、私の母のやり方でした。




私はそれを学習し、

自分の人生に取り入れていたのです。




これに気づいたとき、

母に対する怒りが起こりました。




母に対する怒りは

過去に何度も向き合っていましたので、

すでに解消済みと思っていましたが、

まだ残存していたのです。
 



とはいえ、感情が出てきたのですから、

抵抗せず、

お隣のおばあさんに対する怒りと合わせて、

そのまま感じました。




すると、次のような疑問と

その答えが、聞こえました。




お隣のおばあさんや母のように、

私に「自分を無力だと

感じさせてくれる人や出来事がなければ、

私は、制限の錯覚を生きることが

できなかったのではないだろうか?」




聞こえてきた答えは

「イエス」でした。




この瞬間、

過去のすべての出来事が、

私に幻想の制限を与えるために

起こってくれていた贈り物であったことがわかりました。




私たちは、そもそも制限のない存在です。




そもそも制限のない存在ですので、

なんでもできます。




最初から、なんでもできると、

そこには喜びは感じられません。




あたりまえのことだからです。




病気になったときにはじめて、

健康のありがたさに気づけることと同じです。




生きる喜び、

自分本来の制限のない可能性を

味わうためには、

制限の錯覚が必要だったのであり、

このために、

自分に制限があると錯覚させてくれた

すべての出来事が、起こってくれていたのだと

気づいたのです。




この瞬間、

母やお隣のおばあさんをはじめ、

自分に制限があると錯覚させてくれた

すべての出来事が、

神様――あるいは愛、あるいは贈り物――

であったことがはっきりとわかりました。




そしてこれによって、

全部が自分だったことに気づきました。




私たちは

自分のやりたい遊びを

遊んでいるだけなのだ

とわかりました。




私がまだ、

世界に光と闇があると信じていたときには、

さまざまなものに悪を投影して見ていました。




光と闇があると信じているときには、

世界は、光と闇にわかれて見えました。




世界は最初から、愛、贈り物なのですが、

私たちはこれに気づくために、

わざわざ制限をつくり、

それが最初から愛、贈り物だったと気づく

遊びを発明しました。




なぜならば、

この遊びがなければ、

世界はつまらない

――何も起こっていない――からです。




つまらないといって、

冷めた気持ちで生き続けるのも、いいでしょうし、

みずから謎を解き、

愛の中に戻るのもいいでしょう!




どちらにしても、

全部、自分で決めているのです。




全部が自分だからです。




目覚めるのも、楽しい遊び!




目覚めないのも、楽しい遊び!




自分の可能性を

遊ぶのも、遊ばないのも、自分次第!




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