記憶人格 | 山田小説 (オリジナル超短編小説) 公開の場

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 たまに人は思い出装置を利用し、快適な仮想空間内で記憶人格との対話を行うのだという。例えば今とは別の社会で暮らしていた頃の人格と近況などを語り合ってみて現状との変化を確認してみるのだそうだ。そうした行為によって自分の中で流れた長大な時間を一本の筋が通った軌跡として認識してみようと試みるらしい。現状の自分が今ここに存在している理由を思い返し、そこから何らかの意義というものを見出したいという事だろうか?
 
 確かに、思えば奇妙な気もする。我々には移動の自由が保証され、どこへでも好きな環境で生活できるにも関わらず、たまに所属する社会を変更してみたりする。転居の理由は種々様々あるにせよ、気に入って選択した環境ならば、過去も現状も未来永劫ずっと同じ日常生活を続けているはずではないだろうか?この変化はなぜ訪れるのだろう?やはり動物として太古から受け継がれてきた本能が活動領域の拡大を希求して無意識から働き掛けてきているのだろうか?しかし、それにしたところで一つの快適な環境に安住し続けた方が生存確率が上昇するという理屈も成り立ちそうなものではないか。
 
 私自身も友人からの勧めで記憶人格との対話を試みてみた経験はある。無作為に幾つかの時期から選択してみたのだが、その人格の幅たるや一定の整合性があるとはとても思われない程に多彩であり、そこに人生という一本の筋道を見出す作業は早々に頓挫した。そもそも彼等を自分自身として認識する事さえ私には困難であった。それどころか、むしろ一度も自分であった事がない存在であるはずの友人に対して覚える親しみの方がずっと濃いように感じられたのだから救われない。
 
 友人はそんな私の態度を見て人生を放棄したなどと評価したが、そもそも私は人生が一本の筋道である必要さえ感じていないのであるから記憶人格との対話などに身が入らないのも無理からぬ話だ。心中が不幸に満ちていれば原因を作った過去の自分に向けて文句の一つも言ってやりたくなるかもしれないが、現状は決して最悪ではないし、仮に悪かったところで改善する権利は今を生きる自分しか持っていないのである。それで、一体何を語り合うべき問題があるというのだろうか?
 
 と、そこまで考えて私は記憶人格に対して感じた余所余所しさの原因を悟る。そうだ。彼等も私と共通する想いを抱き、接触を試みてきた将来の自分に対して反射的に胡散臭さを嗅ぎ取っていたはずなのだ。確かに彼等は私だったのだ。そう気付き、ようやく私は自分が誰であるかを思い出せた気がした。

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