近世人は予測する | 山田小説 (オリジナル超短編小説) 公開の場

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 傘を差して霧雨の中を歩いていく。
少しばかり肌寒い。時折見知らぬ他人と行き違うが、視界に入ってくる景観は全体的に灰色がかって薄暗く、注目に値する事物は何一つ存在していないように思われる。

 何となく気分が塞ぎ込んでいるようだ。しかし、歩き続けよう。憂鬱になる理由はこの天候以外に思い当たらないが、それは自分の能力によって解決できる問題ではない。とはいえ街路のどこにも興味を引く事物が存在していないのであれば、内省的な気分になっていく事も仕方がない。
 
 いっそ科学技術の行く末にでも思案を巡らせてみようか?それだけ規模が大きな命題にもなると自分の手に余るという事があまりにも歴然としているので、かえって無責任になり、深刻な心理状態にも陥らなくて済むはずである。
 
 さて科学技術の究極的な終着点とはどこに設定されるべきだろう?もちろん医学は患者の不老不死を理想とし、地質学は地球の裏側まで掘り進めようとしているに違いない。しかし、科学全般の目標とは何だろう?ズバリ、それは予知である。天気予報の精度が向上してきているように、必要とされる情報と方法さえ用意されれば高度な能力を備えた計算機が人間の諸行も、天体の消長も、すべて細部まで正確に予測できるはずである。
 
 ここに至って、私は近世人である。なぜなら人類の叡智が行き着く終局的な未来の姿を見通せたと確信するからである。自分たちが進むべき方向を悟り得た人間はもはや蒙昧な中世人ではないに違いない。あるいは、ようやく中世という時代に辿り着いたところだろうか?いずれにせよ以前とは異なる境地に足を突っ込んだはずである。
 
 しかし、霧雨は相変わらず降り続いている。気分も塞ぎ込んだままである。ただし、近世人として歩いているわけである。近世人として思案を重ねているのである。

 ふと街角の景観を見回してみる。霧雨の中を行き交う人々は、おそらく全員が中世人である。或いは、私自身を中世人と定義すると、目下のところ彼等は古代人に属しているわけである。私がその事実を伝えれば、大方の人々が眉を潜めるだろう。その表情は無理解と不快感を示している。だとすると、私は非常に孤独な存在である。

 どうやら鬱屈する理由が天候以外にもう一つ増えたらしい。しかも、霧雨はやがて止むだろうが、他愛もない優越感から生じる孤独という状況は、ひょっとすると生涯にわたって私を苦しめるかもしれない。そもそも近世人などという、ほとんど実益を伴う見込みがない称号に魅力を感じた時点から不幸が始まっていたのだろう。

 今からでも手遅れではないかもしれない。先ほどまで思案していた未来観を一刻も早く完全に否定すべきである。どうも楽観的すぎるのではないか、という懸念は当初から感じていたのだ。慎重に検討し直してみることにしよう。

 改めて考えてみると、全宇宙で発生する出来事を全て正確に予知し、その情報を災害や事故などの未然防止に役立たせる、などと言った案件が実現する見込みは少しでもあるのだろうか?その為には宇宙全体を把握することが不可欠になるだろうが、その作業自体が途轍もなく困難なのではないだろうか?なぜなら、ほんの僅かな間違いが将来的に大きな誤差を生じさせていくという事を考慮すれば、情報を極めて緻密に収集しておく必要がある。そして、人類の安全を守る為にあらゆる可能性を検討しなければならないとすれば、それを処理する計算機は懐に無限個の宇宙を抱え込んでいるようなものである。

 明るく輝く電球を原始人に見せれば、彼等は魅惑されながらも極端に警戒心を働かせるだろう。私も自分自身の思索の展開に対して、彼等と同様の心境に至りつつある。そもそも、そのような計算機を構成する材料は宇宙全体の質量を大幅に超過しているのではないか?要領よく僅かな材料で製作できたとしても、一箇所に集中させれば重力によって中心部分が溶解していくだろうし、分散させれば情報伝達の効率が悪くなるはずである。

 全く実現性があるとは思われない。しかし、予知の目的が人類の保安にあるとすれば、それを達成する方法は他にも考えられるのではないか?人類の居住地区をあらかじめ限定し、人口を増えすぎないように調整しておく。そして、その宙域の周辺だけを詳細に予知しておけば良いのだ。宇宙全体で発生する出来事は大まかに把握しておくだけで充分である。

 おそらく未来の人類は脳を機械と接続させ、仮想現実の中で生きているはずである。その方法ならば限定された宙域の中でより多数の人間が生存できるのではないか?宇宙の果てまで探検したいと考える個人や、子供を産みたいと思う個人は、仮想現実の中でそれぞれの願望を達成するべきである。

 孤独な近世人とはいえ、私自身も種族の一員として、人類全体の幸福な未来を願わない事はないのである。そして、現在を生きている人類にとって、「ここに留まる。」という選択肢は絶対にあり得ない。なぜなら産業革命以来の文明はもはや永続不能な段階に突入しているのだから。

 あらゆる物理的な災厄から完璧に守られた人々が機械による永遠の夢想をそれぞれに体験している世界。そこでは全ての人間が生きたいだけ生き、死にたい時に死んで行く。新たに産まれてくる人間はいるだろうか?それは分からない。ただ、全人類の永遠ではない生涯を全て体験してみたとしても、まだ時間は余っている。全人類の自殺以外の願望を全て達成してみたとしても、まだ時間は残されている。そのような世界に生きていたとしたら、私は何をしているだろうか?

 しかし、眼前では相変わらず霧雨が降り続いている。二本の足が一歩ずつ固い路面を踏み締めている。湿気を含んだ衣服が刻々と重量を増しているように感じられる。目下のところ、それらが私にとっての歴然とした現実である。そして、その胸中には未来人に対する嫉妬心が蠢いている。自らを近世人と名付けてみたところで、むしろ不満足感が増幅するばかりである。いずれ確実に死亡する運命にあるという点においては、他の通行人達と全く変わりがないのである。何となく自分自身が虚しい存在であるかのように感じられる。

 タイムマシーンに乗って未来人が祖先を救出に来ないだろうか?しかし、その場合、救出される我々は本来の歴史から外れた地点に立つ事になるので、厳密に精査すると我々自身とは呼べないかもしれない。しかも、そもそも彼等はタイムパラドックスの危険に手を染めてまで我々を救出したいと考えるだろうか?ひょっとすると自分自身の長大な人生まで失うかもしれないのである。もし時空旅行が理論的に可能になったとしても、その実行は未来世界において禁止事項になっているのではないか?そして、我々は自分たちの子孫対して、死の危険を冒せ、と声高に叫べるだろうか?できるとすれば、あまりにも利己的で見苦しい。

 他の手段を探らなければならない。私自身も人並みに生への執着心は持ち合わせている。簡単に絶望するつもりはない。永遠に生きていける世界が人類の未来に到来するのだとしたら、私もそこに参加したいのである。もちろん最も短絡的な動機は、あらゆる悦楽を味わい尽くしたい、という点にある。

 ところで、この宇宙は未来永劫にわたって延々と存在し続けるのだろうか?いつか跡形もなく霧散するのではないか?だとすると未来人はいずれ別の時空へ退避する必要がある。その機会に我々も一緒に救出されないだろうか?この宇宙とは時間的にも空間的にも関連性がない世界から導かれるのであれば、歴史上のどこに位置していたとしてもたいした問題ではないはずである。しかも、その方法ならば未来人達自身が既にタイムパラドックスの危険を冒しているという体裁になるのだから、今さら改めて警戒する必然性が失われるのではないか?

 原始人から未来人まで、全ての人類が好きなだけ生を謳歌できる世界。それこそ私が希求する現代のあるべき姿である。そして、その楽観的な理想に対する疑念の分だけ、私の胸中には未来人への嫉妬心が湧き出てくるのである。なぜなら私は彼等が考慮する必要のない問題について頭を悩まされているのである。いっそ同時代に生きる人々とその苦悩を共有し、近世人を増加させていく努力をしてみようか?ひょっとすると、そこから新たな妙案が生まれてくる可能性もあるのだから。