囚人は薄っぺらな布団に寝そべりながら手を伸ばして独房の殺伐とした壁面を撫でてみる。時折り思い出したかのように、そんな動作を繰り返す。視界の大部分を占める壁が依然しっかり存在し続けているという事実をひんやりとした感触によって念入りに確認する。
ほんの数日前までは自分を取り囲む壁面など嫌悪の対象でしかなったような気がする。今もそれは変わらないが、幾つかの夜を過ごしてみてこの独房の環境に慣れてみると、意識が過酷な現状を見失う瞬間が徐々に増えてきているという事に気付いたのだった。まるで悪夢から逃避するかのように、いつの間にか無為な想像力が紡ぐ脳内の楽園にのんびりと浸っているのだった。
そのせいで囚人は自分が狭い監獄に囚われているという現実を思い起こす度に激しい失望感を味わう羽目になった。彼は以前にも増して眼前の退屈極まりない壁の存在を呪わずにはいられなかった。しかし、何度となく同じ失望を繰り返している内にさすがに気疲れがしてきたので囚人は自発的に考え方を改める事にした。今では定期的に壁を撫でてみるという行為を落胆の予防措置として繰り返すようになっていた。
しかしながら自分の気持ちを完全に騙し切る事は不可能で、時折り苛烈な憎悪の感情を吐き出すかのように壁面を蹴り付けてみる事はあった。もちろん壁よりも硬い靴などを支給されているわけがないので足を痛める結果にはなった。それでも犯罪者にふさわしい凶暴な本性は自らの負傷さえ顧みずに大人しく心中に秘匿され続ける事を拒むのだった。囚人はそんな時にだけこの狭い独房の空間内にあっても自分を見失っていないと安心できるような気がした。
ただ、足がやわらかなせいで頑丈な壁を蹴るだけでは看守を呼び寄せる程度の物音を響かせる事さえ困難であり、他人に気付かれない行為をひっそりと繰り返しているという事がしだいに物足りないように感じられてきていた。
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