電信柱恋物語 短縮版 | 山田小説 (オリジナル超短編小説) 公開の場

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 ある日、男は妻子よりも一本の電柱を愛しているという自覚に思い至った。毎日の通勤で必ず引っ掛かる信号機がある交差点の角に立っている電信柱なので以前から視界に入ってくる頻度は高かったのだが、最初はまるで興味も皆無だったはずの物体であるのに数年も同じ道を往復していると表面にある些細な傷の位置や角度までもを記憶するようになり、他の電信柱とは異なる存在として認識できた途端に愛しさが胸中から込み上げてきたのだった。それは紛れもなく恋心だったが、しかしながら対象を擬人化したつもりはなく、あくまでも電信柱として愛し始めたのだった。
 
 その感情を自覚すると男は途端に毎日の通勤が楽しくなるような気がした。疲労しているわけでもないのに寄り添ってみたり、残業が長引いて夜遅い時間帯にその交差点を通る機会に恵まれた場合には人目を盗んで優しく抱擁してみたりした。もちろん電信柱はそんな男の心情に対して何らかの行為で応えてくるわけではない。表情も変えない。しかし、そんな毅然として揺るぎない佇まいが胸中の純真な箇所を心地良く刺激して愛しさをさらに増幅させていくのだった。いつしか男は毎日その電信柱と顔を合わせている事が勿体ないとまで思い詰めるに至り、別の道順で通勤してみる機会を意図的に増やし始めた。そうして今日はあの電信柱から二区画離れた道路を通って数秒間だけ姿を視認した、といった事で充実感を得るようになったのだった。
 
 しかし、その恋は男にとって必ずしも愉快な経験だけをもたらすものでもなかった。なぜならば、電信柱を愛している人間を自分以外には知らないので、世間を見回してみたとしても共感できる相手が見当たらず、生活のあちらこちらで今まで感じた覚えがない種類の孤独を味わう羽目になったのだった。しかも、自分が既婚者であるという事実について罪悪感も覚え始めた。電信柱を女性の代用として認識するつもりはなかったのだが、内奥の動静は容赦なく男の意向に背いていた。そんな負い目も手伝って増々その交差点とは疎遠な状態になっていったのだが、間近で観察する機会が減少していくに連れて電信柱は脳内で急激に観念化していき、その純度が高まる余り、遂に男はほとんど神々しいまでの存在をそこに見出すに至ったのだった。
 
 そして、ある朝、男は久し振りにその交差点を通ってみて愕然とさせられた。そこに立っている電信柱は数日前までと同一の物体であるはずだったが、頭の中に存在する理想像とは微妙な誤差があるような気がした。実物に対して生じた些細な違和感が男の幻想を無造作に打ち砕いたのだった。その瞬間、無邪気な精神の高揚は否応なく終焉し、まるで時空の境界線を跨いだかのように周囲のすべてが途端に色褪せたように感じられた。男は肩を落とし、塞ぎ込んだ気分で職場へと歩き始めた。過去の輝ける記憶を脳内に再構築させようと試みながら、二度とこの交差点には足を向けないと誓いを立てた。悲愴な心情を顔色に滲ませ、孤独な幻想の中に生きていく覚悟を固めていたのだった。


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