懐かしかった。
大分県、日出町に私は副大臣として始めての視察に出かけた。
国東半島での開拓部落の森川牧場。
壊れかかったような畜舎。トタン板の屋根に旧い電柱かと思われる柱、そこに数十頭の黒毛和牛が飼われていた。牛達も皆、穏やかで落ち着いている。
柵の鉄柱も赤錆びて歳月の経過を語っている。
私も若いころ、このような山奥でこのようにして牛を飼っていた。
私は豚まで手がけて、最後肉屋、牛丼屋まで挑んだが失敗した。
いろんなことを乗り越えて、ここまで続けてきた森川さんには頭が下がる。

「生まれたばかりの子牛もいますよ」
「濡れ子か、見たいね」
可愛い。私が手を指し伸ばすとつぶらな目を開いて擦り寄ってくる。
乳が欲しいのだろうか。
親指を差し出すと、むしゃぶりついてくる。いつまでも私の指を咥えて離そうとしない。目も半白になって必死さが伝わる。
遠い昔。
私は乳牛の濡れ子(産後3,4日)を分けて貰っては、こうして粉ミルクをお湯で溶いては飲ませていた。
そのときも、飲み足りないのか、いつまでも私の指を咥えて離そうとしなかった。
「これまで頑張って大変だったろうな・・・・・」
森下さんは、若い後継者(息子)と奥さんを横にニコニコしている。
「子供のころは、学校から帰ると、下の湧き水の水場から、バケツに水を汲んでは天秤棒で水汲みさせられていましたよ。
風呂を沸かすとなると4,5回は往復しなければならなかった。
電気も無かったので石油ランプですよ」
そうだ。私の子供のころ五島でも、まだ石油ランプが使われていた。
臭かった記憶が蘇る。
「それより、副大臣、農協は何とかなりませんか、満州から引き上げてこの開拓部落で長いこと果樹栽培に打ち込んできた知り合いの叔父さん夫婦が困っているんです。
「幸水」のうまい梨を作っているのですが、行くと叔父さん叔母さんがじっとしているのです。
聞くと、梨の「袋がけ」をしたいが、借金があるからと、農協が「袋」すら出してくれないのだとぼそりと語ったそうだ。
母が、二人とも食べるもの食べていない雰囲気だったので、自分の年金を少し渡してきたと言っていました」
「・・・・・・・・」
私は何も言えなかった。

もとをいえば、昨日はかねてから見たいと考えていた、日出町の鈴木養鶏に農水省の本川生産局長、宮本九州農政局長らと「飼料米」の現場視察に来ていた。
大分県では松久部長が熱心に飼料米と取り組んでいた。
先ずは、「くさほなみ」と「もみろまん」両方の飼料米、稲を見せていただいて、その後、米の生産者、養鶏、養豚の業者らと遅くまで語り合った。
「くさほなみ」は「もみろまん」の半分もたけがない。藁の量も少なくなる。
松久さんも収量も10アール当たり200キロは違うと語っていた。
私は、集まった九州管内の各県農政事務所、所長さん達に声高に激を飛ばした。
「これからは、水張りだけの調整水田には、減反の奨励金など一切出さないよ。
このような減反をやめて、飼料米の大増産に転換だ。そのための所得補償をしよう。
畜産業者と米の生産者を鈴木養鶏さんと広瀬台の米農家のように直接つないで欲しい」
皆、大きくうなずいてくれた。