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昨日の夜半、広島に着いた。車中、新幹線の中でも窓からむらくもひとつない満月を眺めることができた。梅雨も明けて夜空も澄み渡っている。
私の心の中にいろいろな想いがよぎった。
来る日も、来る日も激しい雨が降り続く中での口蹄疫での殺処分・・・・、雨との戦いで恨めしかった。
今夏の梅雨、異常ともいえる豪雨はいつになく激しく農林関係の被害額でも400億円を超えることがわかってきた。
私も農林水産大臣として、今回の豪雨被害で農地山林が最も激しかった広島県の庄原市を訪ねることにした。
現地は中国山脈の山腹、島根県との県境に近いところで、行くまでにかなりの時間を要した。
早速案内していただいたが、庄原は亀井静香先生の実家のあるところで、奥様にも迎えていただいた。
亀井先生の実家のあるあたりまでは、何処とも変わらないのどかな里山の田園風景が続いていたが、一つ谷を越すと状況は一変した。
山肌は赤茶色に幾筋も引き裂かれ、田んぼは折れた木々土砂で埋まっている。集落の家々も土石流に押しつぶされて見るも無惨な状況だ。
被災にあって10日もたつのに、まだ手をつけられないような惨状にある。
「あの屋根だけ残った家があるでしょう、あの屋根の三角形になったところに、逃げていて家族3人は助かったのです・・・・・。行方不明者の一人は、あの家の方に電話で助けを求めたそうですが、自分も危なくてどうしようもなかったそうです」
話を聞いているうちに、私はかつての長崎大水害のことをまざまざと思い起こした。
あの時も凄かった。
当時、私の家は長崎市の中島川の上流にあって庇が川に突き出していた。そこに1時間に180ミリと言う記録的な集中豪雨で、どっと濁流が流れ込んできたのだ。
私自身は長崎市の繁華街にある中華料理店で宴会中だったが、あまりに雨が激しいので不安になり帰ることにした。路上に出るが、そこも叩きつけるような雨で歩くともできない。
ようやくタクシーを見つけて自宅のある「蛍茶屋まで行ってくれ」と頼んだが「あそこは大変です、とてもいけない」と断られる。
たまらなく不安になる。
歩くうちにみるみる水かさが増してきて、私も近くのホテルに飛び込んだ。
当時は携帯電話などない。
赤電話から自宅に電話を入れる。家内が電話をとる。
「大水で危ない、すぐ子供を連れて逃げろ」と叫ぶ。
「何を慌てているの・・・・・あっ大変」それで電話は切れてしまった。
濁流は勢いを増して水かさがあっという間に、私のいるホテルの一階部分はあふれてしまい私たちも2階へと逃れる。
子供たちのことが不安でならない。
荒れ狂う濁流を見ながらまんじりともしない一夜を明かした。
・・・・・・あとで聞いた話だが、家内はその直後、濁流が家の中に流れ込んできたので、慌てて生まれて間もない子供を背負って、3人の子供の手を引いて家を出たそうだ。
近所の人に誘導していただいて、高台に避難することができた。
災害は本当に怖い。
庄原の皆さんも恐怖の一夜を明かしたに違いない。
集まった部落の人達は深刻な表情で土砂に埋まった田畑を指し示して、私に語る。
「このままではここに住めません。もう一度、この集落で農業をやれるようにしてください。そうでないと、私も子供も路頭に迷うのです。ここを出て行かなければならないのです」
年のころ50代半ばだろうか、集落の農業の担い手に違いない。このような方に日本の山村で農地を集落を守っていただいている。
私は農林水産大臣として、復旧工事を急いで、このような僻地の農業を守らなければならない。

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