島に帰ると、狭い棚田のあぜ道に真紅のマンジュシャゲが咲き誇っている。
彼岸になると必ず咲き乱れる。葉が一枚もなくて薄緑の茎がすっと伸びる。
その先にお椀の形で妖しく花弁が重なっているマンジュシャゲ、彼岸花は子供のころから不思議だった。
なにか惹かれるものがあった。
宮本常一の「忘れられた日本人」を読んだときに、干ばつなどの大飢饉が来たとき、彼岸花の咲く谷に集落すべてで引越ししたと言う話があった。
百合根のような彼岸花の球根をすりつぶして、川に漬けてあく抜き、毒抜きをして「しらえ餅」を作って飢えをしのいだという。
「そうか、あの妖しい花は、人の命を救ってきたのか」
そう思って、以来なんとなく、彼岸花に納得してきた。
もともと、彼岸花は種子がないので、谷の畦といえども、次々に広がっていかない。1メートル移動するのに100年もかかるとか聞いたことがある。
古代、大和民族の飢えをしのぐための深い知恵で、植えられてきたのだろうか。

私は昨日の民主党の臨時党大会で彼岸花のことを思い出した。
小沢一郎が懸命に訴えた。
「政治家は政権は放り出すことができても、国民は生活を放り出せない・・・・・・・・・」
ぐっと私の心を捉えた。
小沢としては安倍、福田と2代続いての政権放棄をさしたと考えられる。
これまででは考えられない軽薄、無責任の乱れた世の中になってしまったのだろうか。
私はもっと真剣に受け止めた。
私が地元を回っていて、つくづく感じるのは、今や老いも若きも食べることができなくなってきた。
いわゆる、天災などの飢饉ではなく、行政、政治によって飢えざるをえなくなってきている。
一昔前の日本人なら、彼岸花で「しらえ餅」を作ったかもしれないが、今の人達は生活を放り出すことはできないが、命を絶つことはできる。
この2,3年自殺者が増加の一途を辿っている。
政治の責任は重大である。
こんなときに、衆議院総選挙を前に、自民党の谷川弥一議員が、政治が嫌になったから出馬を断念したいとの記事が西日本新聞の一面に掲載された。
その日のうちに撤回されたものの、政治家たるものは国民から選ばれているのだから、簡単にその責任を放棄することなど許されない。
真剣にその責任の深さを考えねばならない。
それにしても、彼岸花は田んぼの畦を赤く染めて、妖しく咲き乱れている。