満月は過ぎたのだろうが、円い月が相模湾の上に傾いている。
穏やかな湾内は月の光をうけて波高がきらめいている。
私は病室の灯りを消して、窓に頬杖をし、いつまでも幻想的な海を見つめている。
暗い波間はきらきらと夜光虫でも踊っているかのように無数に波がきらめいている。
いろいろな思いが込み上げてくる。

実はこの8月12日、私は息子から腎臓をいただいて生体腎移植の手術を熱海にある国際医療福祉大学病院で受けた。
手術はうまく行って順調な回復を続けている。
身体中に付けられていた心電図などのモニター装置、尿菅などの管も次々に外されて、後は点滴一本を残すだけになった。
ありがたい。
私は10年前も腎臓を患ってクレアチニンの値が6近くまで上がって、透析をしなければならないぎりぎりのところまで来ていた。
透析になれば政治家を辞める覚悟をした。
当時、足が象さんのように腫れあがって、時間さえあれば横になっていた。
「兄ちゃん、僕の腎臓をあげるよ。日本のために頑張って欲しい」
そのときに、ありがたいことに、実の弟、邦彦から腎臓をいただいて東京女子医大で腎臓の移植手術を受けることができた。
それから、見違えるように元気になって衆議院の選挙を3回も戦い、ついに政権交代することができた。
そして、私は農水副大臣、大臣にまで就任することができて、念願であった農業戸別所得補償、離島のガソリン価格の引き下げなどを思い切って実現することができた。
(この6月に宝島社から出版した「農政大転換」の新書を読んでいただきたい)
腎臓移植は他人の臓器なので、どうしても抗体ができて、平均して10年ほどが限界だとされているが、私の腎臓も3,4年前から次第にクレアチンが上がってきた。
腎性の貧血もひどくなって
「山田さん、何で顔が白いの」と言われるようになってきた。
心配した息子が自分の腎臓の提供を申し入れてくれた。
ありがたい。
しかし、2度までも腎臓を移植して政治家として生き抜かなければならない人生だろうか。
私は迷った。
まだまだ現在のクレアチンの値では1,2年の任期中は透析を受けなくても、政治家としての仕事は続けることができる。
そのとき、東大アイソトープの所長、児玉龍彦教授と福島の放射能の内部被爆の問題で一緒に食事しながら語り合うことができた。
驚いたことに、児玉教授も最近肝臓を患っている奥様に、自分の肝臓を移植してあげたばかりとのことだった。
「山田さん、迷うことはありませんよ、せっかく息子さんがそう言ってくださっているのであればすぐにでも移植手術を受けるべきですよ。山田さんにはまだまだ社会的にも仕事をしてもらいたい」
ときっぱりと言われた。
翌日メールもいただいて「何なら東大病院で手術を引き受けてもいいですよ」と諭された。
私は決意した。
こうして、お盆の休暇中に、東京女子医大の腎外科の教授、寺岡先生が院長をしている国際医療福祉大学の熱海病院で手術を受けることができた。
手術前に心臓、肺、胃腸、肝臓などあらゆる臓器について癌等の検査も受けたが、ありがたいことに腎臓以外はどこにも異常がなかった。
息子の腎臓は、術後すぐにフル稼働し始めている。
私の腎臓のクレアチンの値は術前には3,9ほどあったのが、術後すぐに1を切るまでに下がってしまった。
今では腎臓の機能は普通の成人よりも私のほうが、数値の上ではいいことになってしまった。
現代の医学は素晴らしい。

私の入院している病院の病室は7階にあるが眺望もなんとも素晴らしい。
眼前には一面に空と海が広がっている。青い空に白くモクモクと湧いている夏の雲、
太平洋の真っ青な海がくっきりと水平線を分けて、見事な波紋を浮かべている。
病室のすぐ真下まで、相模湾の波が打ち寄せている。
大きい波、小さい波、それぞれが、走るようにしてまっしぐらに崖下のテトラポットに次々に打ち寄せる。
その度に青い波が砕けて真っ白なしぶきが跳ね上がる。
すべてが洗い流されるような気持ちに満たされる。
身も心も清新な気分に満たされて、これからのことを考えて、一人胸が熱くなってくる。

今宵も病室からザ、ザ、ザブーンと海鳴りの音を聞きながら、静かに眠りに入る。
感謝。