久しぶりに五島に帰った。
今年の北九州はゲリラ豪雨に悩まされたが、ようやく本格的な夏を迎えていた。
真っ青な空に白い雲がムクムクと湧きだして太陽もギラギラしている。
少年の頃、毎日のように六方の浜(平家の落ち武者が流れ着いて隠れ住んだといわれている浜辺)で泳いでいた。
遠浅の砂浜を打ち寄せる波に逆らいながら沖の方に泳いで、一休みと背泳ぎしながら、浜辺の方を眺めると濃い緑の山の上に真っ白な入道雲が湧きだして形を変えていく。
まばゆいような少年の頃の夏だった。
その頃の話がNHKのEテレで放映された。
日本人は何を考えてきたか、吉野作造と石橋湛山の番組だが、何気なく見ているうちに、私は釘付けになった。
石橋湛山は戦前東洋経済新報社の主筆として、日本の植民地主義、当時の朝鮮、満州の支配を激しく糾弾する。直ちに返還して小日本主義を貫くべきだと主張する。
勿論、太平洋戦争にも反対するが、終戦を迎えて石橋は「更生日本は前途洋洋たり」と小論文を発表する。
それから面白いのが、石橋は政治家に転身して岸信介と争ってわずかな差で総理になる。
そのときに石橋が主張したのは自主外交路線で、当時の録画で自らの肉声で「アメリカの言いなりになってはならない」と野太い声で言い放っている。
今の私にはTPPへの想いも重なってか、感動してすぐにメモに書き残した。
私の少年時代、すでにときの総理がそのような談話を残していたのだ。
調べると石橋はその頃、中国との交渉にも触れ、米国の駐留軍の削減にも触れているので米国の虎の尾をふんでしまったのだろうか。
孫崎享さんの本によれば、米国では国務省の北東アジア部長が「石橋は長続きしない」と予言している。
石橋は母校早稲田大学の祝賀講演で突然風邪を引いて病床に就き、医師団から2ヶ月の療養が必要として辞任することになる。
当時、主治医は「肺炎は消えて回復に向かっている。・・・・・・・」と述べているが何があったのだろうか。
その後は米国の期待の星。岸信介が総理に就任して、ひたすら日米同盟に向けて動き出す。
そうして、まだ記憶に新しい安保闘争のあれだけの争議につながっていく。
石橋はそのあと中国を2回訪問して、日本、ソ連、米国、中国の平和同盟を提案する。
長いときを経て、田中角栄が総理になり、日中平和宣言にいたるが、訪中の直前、石橋湛山を訪れるところが
貴重な映像として残されていた。
田中角栄が「石橋先生、これから中国に入って参ります」述べるとベッドに横たわっていた石橋に報告する。
石橋は88歳、米寿を迎えていたが、病気で口も開けず横たわったままでかすかに微笑んだように私には思えた。
日中友好宣言も今年で40年を迎える。
小沢一郎が主催した訪中団「長城計画」も、私も2度ほど同行したが30年は続いたのではないだろうか。
田中角栄もロッキード事件で、ある意味では米国から潰され、総理経験者でありながら逮捕されることになる。
その自主外交を貫いてきたのが小沢一郎であり、鳩山由紀夫ではなかったか。
政権交代して鳩山総理は、自民党政権下で長年続けられ、大店法とか派遣労働法などを受け入れてきた
対日年次要望を断った。
そして鳩山内閣も普天間の問題で米国の国務省と日本の外務省との罠にはまって退陣に追い込まれる。(そのいきさつは中田安彦氏の著書「日本再占領」の中でウィキリークスが明らかにした外交公電として詳しく書かれている)
誰でも知っているように、小沢一郎は今でも進行中である。
しかも、今でもなお闘い続けている。
今でも米国追随主義と自主外交路線の闘いは続いている。
熱い夏は続いている。
夜半、五島での空では天心に、月が煌々と照り冴えていて想いを遠くに馳せた。