今年も終わる。
いろいろな思いが頭をよぎる。
最後、私は銀座のシネパトスに韓国の映画「牛の鈴音」を見に行った。
新聞で知って、どうしても見ておきたかった。
韓国の山深い農村での老農夫と老牛とのドキュメンタリー映画で、今では日本で失われてしまった懐かしい農村の風景に出会いたかった。
五島でも、私の若いころまでは、どこの家でも、住まいの土間のうちに家族の一員として牛を飼っていた。
農作業をすべて牛に頼っていたのだ。
牛車もこの映画ではゴムのタイヤに変わっていたが、当時の五島では木と鉄の輪でできていて、土埃のたつ道路をゴトン、ゴトンと揺られていたものだ。
朝早く、父が映画のチェ爺さんのように裏畑の畦草を鎌で刈り取っては、背負ってきて牛に与えていた。
子供のころだったが、父がじっと牛を見つめている視線は、映画のチェ爺さんと通じるものがある。
母が朝餉の米のとぎ汁を牛の桶にいれて飲ませる。
小学校高学年のころだろうか。
私は父に聞きながら、始めて牛に鞍をつけ、鋤を引いて畑を耕した。牛を使えば、こんなにも土を耕すのが軽やかで、しかも早いのかに驚いたことがあった。
トラクターなどの無い時代、牛が役牛として、いかに農家にとっては大切なものであったか。CO2も排出することなく、化学肥料、農薬も使っていなかった。
そのころまでは、日本でも循環型の農業が普通に営まれていた。
わずか50年にもならない前のことで不思議な気がする。
今では日本から農耕用の役牛は消えてなくなり、肉牛、乳牛などの畜産に代わってしまったが・・・・・・。
映画でチェ爺さんは、婆さんにいくらやかましく乞われても農薬を一切使わない。牛の餌になる畦草が農薬で毒されると思い込んでいる。
爺さんは若いころ、針治療に失敗してビッコを引いている。
79歳の爺さんは腰も曲がっていて、農作業の一つ一つの所作が大変だ。ゆっくりとこなしている。
田植え、稲刈りにしても、隣の水田ではトラクターのハーベスターであっという間に収穫を終えるのに、いまだに手作業、鎌を使ってこつこつと続けている。
老牛も40歳。
毎朝、老牛は30年もの間、牛車を引いて畑に爺さんと婆さんを連れて行く。
とぼとぼと車を引く老牛に、山村の四季の移ろいが、溶け込んでなんとも鮮やかである。
私の田舎でも、牛が7産8産もしたら婆牛として、家畜市場に連れて行かれる。そこで廃牛としてミンチなどの肉にされていくのだ。
私も、かつて牛を飼っていたが、牛の寿命はせいぜい10年か15年のものと思っていた。
老牛の白いまつげも長い。見るからに角も節々が割れて年輪を感じさせる。
寡黙なチェ爺さんだが、「牛は人間より大事だ」とポソリとつぶやく。
爺さんの老牛へのこまやかな思いやりが、全編に滲み出ていてなんともいえない暖かさを感じる。
牛の世話、農作業と婆さんも腰が曲がって、これ以上働けないとぼやく。
「何で、いつまでも働くのよ」
「生きているから、仕事するんで死んだらゆっくり休むよ」
と爺さんは応えて、何をいわれても動じない。
頭が痛くなって、牛車で町の病院に行く。医者からは働くのは無理だといわれるが、朝になれば牛のために畑の畦草を刈りに行く。
「せめて飼料を買って牛にやればいいのに、何んでそうしないのか」と婆さんにののしられる。

今では日本でも、ほとんどの老人が介護施設で生活しているのに。
沖縄のサトウキビ農家も言っていた。
「わずかな畑でも、90歳になっても働くことが楽しみで、健康のもとなんです」
考えさせられる。

爺さんが足も怪我してしまった。医者からはこれ以上働くことは無理だといわれる。やむを得ず、町の家畜市場に老牛を売りにいく。
市場では、家畜商たちに老牛を口汚くののしられて、爺さんは怒って売らないことにする。
その瞬間、牛の大きな目からツーと泪が落ちる。

その年の冬、山から小枝などの薪をせっせと運んでいた老牛は動けなくなる。
チェ爺さんが必死で動かそうとする。
「・・・・・・・お前のおかげで9人の子供を育てることができた。この冬の薪もこんなに集めてくれた」
婆さんが老牛をねぎらう。
チェ爺さんが牛の鼻繰り(輪)を静かに離す。牛の鈴も放す。
老牛は応えるかのように、首を大きく振ってそのまま動かなくなった。

「リーン、リーン・・・・・・」
優しい牛の鈴の音が、今も私の耳に聞こえてくる。