夏の午後、強い日差しに、赤いカンナの花が燃えるようだ。濃い緑色のカンナの大きな葉がかすかに風に揺れている。
長崎市内桜馬場の春徳寺、カンナの花の側をそっと抜けて田口長次郎先生のお墓まで歩く。
長女の昌子さんの話では、田口先生も亡くなられて、すでに31年を過ぎたそうだ。
なんと30年ぶりの墓参になった。
たしか、先生は明治27年生まれなので亡くなられたとき86歳だった。
矢の平のご自宅で電話をかけながら、そのまま倒れられ息を引き取られた。
当時、若かった私も奥様からすぐ連絡を受けて駆けつけた。
その夜、先生の死に顔の髭を私は剃らせていただいた。余談だが亡くなっても髭は伸びるものだと驚いた記憶がある。
私にとって、当時の先生はかけがえのない存在だった。
先生は衆議院議員7期、参議院議員1期を勤められ、当時長崎では誰一人知らない人はいないほどの政治家だったが、温厚な優しい慈愛溢れる人柄だった。
今も長崎の立山の知事公舎の前に田口長次郎先生の「水産に生涯を捧げた人」としての等身大の顕彰碑が残されている。
そこには次のような次のような一節が刻まれている。
「・・・氏の政治活動は常に清廉にして潔白、しかも誠実を信条として終始した。特にわが国水産行政に対する氏の信念と情熱は、何人といえども追随を許さざる確固不動のものであり、複雑困難な国際問題の解決は勿論、国内的には各種水産に関する法律を制定して、水産振興の基礎を築いた。その功績は偉大であり、その足跡は不滅である・・・・」
私が政治家を志したのも、先生に勧められてからのことだった。

 

何食わぬ顔で、「東京に行こう、君もついて来たまえ」と言われて上京していきなり連れて行かれたのが竹下登(元総理)さんのTBRの事務所だった。
驚いた。田中角栄さんの全盛時代に「・・・・・・10年たったら竹下さん・・」と自ら唄っていた将来日本のリーダーとしての最も勢いのいいときの竹下さんだ。
なんとも一青年の私にはまばゆかった。
「いい青年がいる。将来政治家にしたいと思うが、君のところに連れてきた」と田口先生が切り出される。
何の打ち合わせも無く、突然の話に私は慌てた。
そのあと、竹下事務所を辞して、田口先生が私に次のように語られたのを今でも鮮明に覚えている。
「・・・・・私は政治家としてこの地球上に小さな痕跡を残したい。そういう思いで政治をこの年まで頑張ってきた」と淡々と語って私に政治家への道を説かれた。
人として生まれ人生を生き抜くに当たって、それがかなえられれば本望である。
当時37歳だった私は感動して舞い昇った。
私にはもう一つの事情があった。
五島で牧場を開いて牛を400頭ほど豚も年間8000匹から出荷して畜産経営と悪戦苦闘の連続だった。
生産者がコストを決められない、相場に依存しているのはなんとも納得できずに、とうとう自ら牧場直営の肉屋6店舗、長崎県庁前で牛丼屋さんまで開いたが、うまく行かない。
このままでは、日本の農業は潰えてしまう。
農政をやってみたい。
私にとって例えどんな小さなものであっても、この地球上に痕跡を残すことができたら、生きていく証としてこんな嬉しいことはない。
強い気持ちが湧き上がってきた。

それから一月もたたない、昭和54年(1979年)5月4日、突然田口先生が亡くなられた。
普通であれば、この話もそのままで終わるところだろうが、田口先生の死を境に私自身の中では、政治家として次の総選挙に挑戦したいといった気持ちが次第に醸成されていった。勿論、迷いもある。なにせ地盤も看板もお金も無く相談する人もいない。
親にも、兄弟に話しても反対されるに決まっている。ましてや家内は幼い子供たちを抱えて絶対に許すはずが無い。
ところが、ロッキード事件に端を発して政局も混迷を深め、大平内閣が消費税導入を唱えたことで急展開して9月7日には解散に至った。
私は意を決した。
家内が次男勝彦の出産で入院している最中の7月、家内にもお袋、姉弟にも一言も相談することなく、記者会見して衆議院に長崎から出馬することを表明したのだ。
徒手空拳の戦い。それからがさらに大変なドラマが展開することになる。
1993年に4回目にしてようやく当選を果たし、5期目のこの6月に私は念願の農林水産大臣に就任できた。
田口長次郎先生に勧められて、いつしか31年の歳月を経ていた。
今日、長崎の被爆65周年平和記念式典に参加して、そのまま田口先生のお墓におまいりすることができた。
感無量。私にとってこの31年、廣野を駆け巡る夢のような歳月であった。
・・・・・・そして、この1月、散々苦労をかけた家内の幸子も亡くなった。

クマゼミだろうか。ひときわ蝉がやかましく泣きたてている。境内には赤いカンナの花の横に、黄色いカンナの花が、ひっそりと咲いている。