11月25日

冷たい雨がばらばらと降ってくる。私は急いで携帯用のビニール製雨合羽を頭から被って腕を通した。膝の上のバッグが水浸しになっている。

長崎の県営野球場で国内初めてのカトリックの列福式、野外ミサが執り行われた。朝から雨が激しく降ったりやんだりしている。
その中で1632年から1603年から1639年までのペトロ岐部をはじめとする188人の命に代えて信仰を守り通した殉教者をローマのバチカンからベネディクト16世教皇様の特使ジョゼ・サライバ・マルティンス枢機卿が長崎に見えて、福者としての称号で讃えた。
アジア、南米など世界各国から、信者、カトリック関係者約3万人が長崎の地に集まった。
ぞろぞろ、ぞろぞろと3万人の信者が球場を内は勿論、内野外野席までびっしりと埋め尽くした熱気は、さすがに凄い。
世界各国から集まった、白の法衣に赤の肩掛けを下げた司祭(神父)団だけで5,600人は超える。それに赤いお椀みたいな帽子を頭に被った司教、枢機卿だけでも30人は参加してくれたのではないだろうか。
私の心の中も次第にざわめいてくる。先ほどからの大粒の雨は、400年も前の激しい迫害を受けた信者たちの喜びの涙だろうか。

日本での殉教の歴史は、当時からヨーロッパ各国で有名な話であった。当時日本にいた宣教師セルエイラ司教のラテン語での詳しい報告書で明らかにされた。
中でも長崎県、有馬の信者で火あぶりにされたときの親娘の話は、いつまでも記憶に残る感動的なものである。
綱が焼け落ちると、姉娘は薪の一本を高くかざす、妹は煙をかいくぐって、母にしがみついて叫ぶ。
「煙で何も見えないよ」
母はしがみついてくる娘に
「そのうちに、すべてが、はっきりと見えてくる」と答えたと言う。
・・・・・・信仰に命をささげた人達の思いはいかばかりだったろうか。
白柳枢機卿の話では、当時棄教しないがために処刑された日本人は亡くなった場所と名前が記録に残っているだけで5000人、記録がなくて分からない人達だけで2万人いたらしい。
・・・・・・・・・今回の列福式は、188人は代表に過ぎず、処刑されたすべての人達、やむなく転んだ人達、すべてを改めて思い起こしたたえる式典ではなかったろうか。

私は、五島高校の2年生のとき、「隠れキリシタン」のひそかな集まりを続けている人達を訪ねて歩いたことがあった。「オラショ」の話、麦の穂が出るときに、島での集まりがある話しを聞いたことを思い起こした。
今でも語り継がれた信仰。
雨はすっかりやんで、低く垂れ込めた雲の間から青空がぽっかりと見えて、いつしか強い日差しに式台は明るく照らされた。

最後にマルティンス枢機卿が謝辞で結ばれた。
「・・・・・・・迫害があったからではない。信仰を守り通した人、転んだ人、迫害をした人も含めてすべての人が神の愛に生きている」

私も改めて神に感謝。