2017年から再開した本ブログですが、Windows スマホから見れない問題が続き、Gooブログに移転しました。

タイトルも、勘太郎爺奮闘記に変更しました。

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閲江楼

 

長江大橋を望む、標高78.4m、周囲2Kmの獅子山の上に立つ楼閣。

長江沿いに建つ江南三大名楼(「岳陽楼」@湖南省岳陽、「黄鶴楼」@湖北省武漢、「滕王閣」@江西省南昌)に続く4大名楼として、2001年に完成した。 

 

1360年、朱元璋が盧龍山(獅子山)に陣を構え、紅巾の乱の勇、大漢皇帝を称していた「陳友諒」の大軍を打ち破り明朝の基礎を築いた。 1374年(洪武7年)に朱元璋は盧龍山を獅子山と改称、閲江楼建設の詔勅が出されたが建設は突如中断され600年余りの歳月が流れ、2001年にやっと完成した。

 

 

周りには鄭和ゆかりの静海寺など30余りの歴史遺跡などがある獅子山景区として国家AAAA級旅游景区、国家重点名勝旅游景区に指定され南京の有名観光地となっている。

 

 

朱元璋

 

 

閲江楼から長江大橋を望む

 

静海寺(鄭和の像がある)

 

何年かぶりの大雪と閲江楼

 

 

閲江楼横の挹江門

 

 

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長江大橋

 

1960年に建設開始、1968年に完成。中国の独自技術により設計・施行された。(当初はソ連の設計で始まったが、冷戦により、中国側が引き継いだとの話もある) 

道路橋は全長4,589m、幅19.5m、長江にかかる主な部分は長さ1,577mであり、上部が道路、下部が鉄道(中国国鉄京滬線)と2階構造となっており、橋の両端には4つの橋頭堡があり、各橋頭堡の高さは70mである。 

完成当時は鉄道道路併用橋としては世界最長であった。またこの開通によって、かつては長江で分断されていた京滬線がつながり、北京と上海が鉄道で直結された。

 

 

 

 

冬に霧が出ると封鎖されることもある。

 

 

長江の下流に位置し、川の流れも速く、欄干も特に対策もされないため自殺しやすい場所として有名となり、年間百数十人もの自殺者がいる自殺の名所となっている。

 

大橋の下流側には、2001年に完成した第二大橋があり、高速道路用であり、通行料がいる。長江第一大橋の下流11kmに位置し、全長21.337kmあり、主に南漢大橋と北漢大橋で構成されている。

霧が出るとすぐに閉鎖され、いつも閉鎖案内が伝わらなく、料金所に行かなければ、わからないことがあり、長江大橋や第三大橋に迂回しなけらばならなく、半時間位要する。

 

 

 

 

長江第二大橋から眺める工場地帯の風景

現在は、公害問題で工場移転の話が上がっている。

 

 

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中華門

 

周囲約34kmの南京城墻の一部であり南京城最大の城門である。聚宝門と称されたが、1931年に現在の名前に改名された。

東西の長さ128メートル、南北の長さ129メートル、面積16512平方メートルあり、3つの瓮城(小城郭)、4つの城門と27の蔵兵洞がある。

中華門には3,000人の兵士を配置することが可能で南京防衛の要であった。中華門は城門であるがその規模の巨大さから要塞に近い。

中国軍事史における現存する貴重な実物資料でもある。

 

 

 

 

(写真上から:城壁内側から見た中華門、中華門鳥瞰、南京城、城壁外側から見た中華門)

 

 

 

明の初代洪武帝=朱元璋は、南京を都として、左右対称で碁盤の目のような長安以来の城市の常識を打ち破り、長江や紫金山、そして玄武湖などの自然の地理をそのまま利用した、総延長34キロにも及ぶ壮大な城壁を21年の歳月をかけて築き上げた。

 

 

 

その城壁にある13箇所の城門の中で、最も規模が大きく最も完璧な状態が保たれているのが中華門です。
 

1938年の日本軍入城でかなり破損されていますが、世界的な城門であり、今は写真のように一大観光物です。
中華門は東西の長さ128メートル、南北の長さ129メートル、面積16512平方メートルあり、3つの瓮城(小城郭)、4つの城門と27の藏兵洞がある。中華門には3,000人の兵士を配置することが可能で南京防衛の要です。とにかくでかいです。

 

 

 

 

 

 
 
 
 
 

朱元璋は都を定めたものの、資金的には裕福でなく、江南の大富豪たちからの資金援助で築城してます。その中で有名なのが、中華門を含めた付近一帯を築城した沈万三(SHEN WANSAN)です。
一説によると、彼の財宝が中華門に埋まっていると言われてます。

 

 

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金陵(JinLing・ジンリン)

 

南京市の南に、50万年前に住んでいたと言われる南京原人が発掘された遺跡があり、観光地となっているが、行ったことがない。 

実際、南京博物館の展示などで学ぶと、長江下流・長江デルタの新石器時代(BC6000~)の遺跡などの展示が見られるが、南京の歴史は太伯・虞仲兄弟の子孫がこの地に城を築いたことに始まる。春秋時代に呉(BC585頃~BC473)。「臥薪嘗胆」、「呉越同舟」などの故事成語はこの時代の話ですね。 

戦国時代は(~BC223)に支配される。この頃の地名が「金陵」で現在でも、金陵は南京の別名となって使われている。

 

三国時代になると、呉の孫権が、229年に都をおき、「建業」と称した。南京駅前にある玄武湖で水軍を鍛え、「赤壁の戦い」で蜀の劉備玄徳と共に、魏の曹操軍を破った話は有名ですね。 孫権は、南京の紫金山の麓の梅の名所の梅花山にある陵墓に葬られたとされているが、詳細は不明。

南京駅から玄武湖を介して市内を眺めた写真。

 

梅花山にある孫建像

 

六朝の時代(280年~589年)は南京が首都であった。隋、唐~元(~1368)の時代は、南唐(937~975)を除き、一地方だった。

 

紅巾の乱から立ち上がった朱元璋(洪武帝が、1368年に、中国を統一し、明を起こし、この地を首都とする。

1421年永楽帝により北京へ遷都され、「南京」と呼ばれる。 洪武帝は紫金山中腹にある明考陵に葬られている。明考陵は北京にある「明の13陵」と共に、世界遺産となっている。 

上:明考陵 下:明考陵神道

 

 

辛亥革命により清朝が打倒され、1912年1月1日、南京にて、孫文が中華民国の成立を宣言するとともに、初代臨時大統領就任のための宣誓をおこなった。 孫文は1925年に北京で客死し、南京の紫金山の中腹にある中山陵に葬られている。 

中山陵

 

1927年4月には蒋介石の国民政府の首都となった。   

 

南京の市街地は、明の初期に建設された周囲約34kmの城壁に囲まれている。(城壁の内部の面積は横浜市鶴見区よりやや小さい。) 

 

この城壁の東に位置する「朝陽門」は孫文(孫中山)の国葬を行う為に、1929年に封鎖され、北側に「三民主義」を意味する3つのアーチを持つ「中山門」が建設された。

現在の中山門

 

1937年(昭和12年) 12月13日、旧日本軍はこの中山門より南京に入城し、総統府に日の丸を掲げる。 

 

松井石根を大将とする中支那方面軍(上海派遣軍と第10軍の2軍編成)である。 この日以降に南京事件や南京大虐殺などと呼ばれる旧日本軍による略奪、虐殺が行われたとされている。 この松井大将は、極東国際軍事裁判(東京裁判)にて、「南京事件」の責任を問われて、死刑判決(B級戦犯)を受け、処刑された。 1978年、他のA級戦犯と共に靖国神社に合祀された。 

(中国人にとっては、この松井は、南京大虐殺の総責任者であり、日本軍による非道の象徴的人物として位置付けている。このような人が合祀されている靖国神社に、日本国の首相、国会議員たちが、参拝するのを見ると、いかに彼らが説明、言い訳をしようと、違和感を覚えざるを得ない。) 

 

12月13日には南京では毎年追悼行事があり、朝には街中にサイレンが鳴り響きわたる。 12月13日が「南京大虐殺犠牲者国家追悼日」とすることが決まり、国として追悼日に格上げされた。

 

 

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