◎八十八仏礼拝行
日頃、時間が取れる時は八十八仏礼拝行をやってます。
私が弟子入りして最初に授かった行は懺悔文(さんげもん)を唱えながら一万遍礼拝(らいはい)を繰り返すものでしたが八十八仏礼拝は仏の名前を唱えながら滅罪を願うものです。
懺悔滅罪(さんげめつざい)を願いながら礼拝を繰り返すのは大乗の基本中の基本ですね。
仏教は大乗仏教の時点でタントラ思想の萌芽がありますが、その後の仏教タントラも大乗仏教の「空性」(シュニャター)を基に展開して行く訳ですから
密教がなくても仏教は成り立つんです。
逆に顕教がない密教は外道になりやすい。
顕教に対する教相判釈はあるとは言え、日々に密教を行じながら顕教を学んで行くって態度が重要だと思ってます。
なので私は密教の修行はしてますが顕劣密勝的な考えはないです。
実際、チベット仏教最大宗派のゲルク派では「唯識三年、倶舎八年」やってからやっとこタントラみたいですからねー
余談ですが…
前にあるリンポチェの伝授会に行った時に長いことチベット密教の修行をしてると自称してた日本人が「日本の密教は中期密教しか入って来てないから不完全な密教と言える」と鬼の首取ったように言ってましたが、こう言うのを一知半解と言うんです。もっと言えば無知蒙昧。
この「中期密教」と云う言い方自体がチベットの学僧プトゥンの「密教四分法」に基付く言い方ってだけであって、日本にはもちろん後期密教の一部も入って来てますし、中世期に無上瑜伽タントラばりに日本密教は日本独自の発展を遂げてるんすよ😜
はい、本題に戻りますが写真1、2のお次第は師匠が行法次第としてまとめてくれたもの。読み方は唐音だったのを呉音に変えてあります。
この八十八仏懺を現在は黄檗宗以外にやるとこあるのか知りませんが、八十八仏はもともとあった53仏にチベットのサキャ派のラマでフビライ・ハンの師匠であったパクパ尊者が35仏を加えて八十八仏になりました。
なのでチベットの伝統で三帰依じゃなくて仏法僧の前に師が加わって四帰依になってますね(写真1を参照)。
日本の場合は自分の師は顕教で言えば三宝の「僧」の中に、密教的には「仏」の中に既に入ってる観念なので取り分けて「師」としては立てないのですが、チベット仏教諸派の加行の最初に「グル・ヨーガ」があるため立てるんですね。
写真3、4は日頃ご教示頂いてる方からいただいた三千仏懺です(有難う御座います)。
よくお寺の法要の仏名会でやるこの三千仏懺はこの53仏の名を聞いた功徳によってそれぞれ過去千仏、現在千仏、未来千仏になった仏の名を唱えながら懺悔するもので、百仏区切りとなってるのでやり易いと思います。
人生、上手く行かないことばかり、なんてのはやはり前世からの業(カルマ)に依ってるんで、その業を滅罪してしまえば話は早い訳です。
人生、上手く行きまくってる人は逆にそのことが業(カルマ)を積んでることになるんでやはり滅罪しとくに越したことはない訳です。
それに運動的にはスクワットなので健康にもボケ防止にもご利益がありますね(^_^)
チベットじゃ10万遍やりますが、ってか一生礼拝行やってる人もいますね。
カイラス山はチベット仏教、ボン教、ヒンドゥー教等から崇められる山ですが、一周52キロを回るカイラス巡礼をこの礼拝しながら108周やる人も居るそうです。
話は変わりますが、天台さんちの朝は法華懺法で懺悔滅罪して、夕に阿弥陀さんを念じてご回向するってシステムはやはり素晴らしい(^^)
この朝題目夕念仏の行法システムだけで完結してるので殊更に密教って必要なんかな?なんて思いますが、衆生済度の慈悲の観点で言えば至極のものとして必要なんですわ。
例えるなら、今現在苦しくてしょうがないって状況なのに、何十年も仏の教えを学べばその苦しみから逃れられるとか言われてもって感じでしょ😅
例えるなら健康法と治療法みたいなもんです。
そこから言えば信仰と懺悔滅罪は1番の健康法ですね。