「自分にとってのヨガの上達は体をどれだけ折り曲げたか、ねじったかではなく、妻子への接し方で測っている」TKVデシカチャー



◎三つのバンダ


ハタ・ヨーガでは三つのバンダを重視する。


バンダとは締め付けると云う意味。


喉の窪みを顎で蓋をするように締め付けるジャーランダラバンダ。


腹部を吐く息で、或は真空状態にして締め付けるウッディヤーナバンダ。


括約筋を締め付けるムーラバンダ。


現在、様々な流派のヨガがあるがそれぞれこのバンダを重視してると思う。


そしてそれぞれにバンダについての捉え方があると思う。


バンダは締め付けによって脈管を閉じプラーナをコントロールする技法と説明するところもある。


なかにはムーラバンダの練習で括約筋の締め付けを何百万回とやるところもあるそうである。


これから述べることは各流派のバンダについての捉え方を否定するものではないことを予めお断りさせていただく。


ではハートオブヨガではどんな捉え方をしているのであろうか?



◎バンダとは自然に湧き起こるもの


ハートオブヨガではバンダについて呼吸を中心として捉えるため、呼吸を意識してしっかりしていればバンダは自然に起こってくるとする。


特に第三のバンダ、ムーラバンダは第一、第二のバンダがしっかり出来てれば殊更意識しなくても自然と湧き起こってくる。


呼吸に意識向け、身体のどこが動き、どんな状態にあるかを感じる。


息を胸で吸い、胸が膨らんで、軽く顎を引くことによってジャーランダラバンダを感じる。


息をお腹から呼き、横隔膜が上がり、背骨に近づくことによってウッディヤーナバンダを感じる。


そうすることで呼吸は深まりムーラバンダは自然に湧き起こり、それを感じることが出来る。


それは単に括約筋を締めるのとは違い、身体の基部から湧き起こってくるエネルギーの流れである。


だからハートオブヨガではバンダは技術的なものとは捉えず、感覚的、現象的なものとして捉えている。


あくまでも自然と湧き起こってくる感覚を感じ取り、意識することを大切にする。


だから「バンダを練習する」と云う捉え方はしない。


もしこれを「練習する」と表現するなら、何の為の練習なのか?或はこれが技術であるなら、何の為の技術なのか?


それはすべての「関係性を感じ取る」練習であり技術である。


先ずは呼吸のバンダから説明しよう。



◎呼吸のバンダ


そもそも呼吸は、呼く、止まる、吸う、止まるの四つのサイクルであり、呼くでも吸うでもない時がありそれをクンバカ(止息)と云う。


このクンバカを意識的にやる事をサヒタ・クンバカと云い二種類あり、呼いて止めるレーチャカ・クンバカ(止息)、吸って止めるプーラカ・クンバカ(保息)である。


瞑想になれた人なら分かると思うが深い瞑想状態の時、無意識に止まるのはケーヴァラ・クンバカと云い非常に良い状態である。


人は生まれてから死ぬまでずっと呼吸をしつづける。


意識的にも無意識的にも熟睡してようが昏睡状態だろうが危篤状態だろうが我々を離れて呼吸は続く。


試しに口と両鼻を塞いでみると苦しくて耐えられなくなる。


これは我々の意思を離れて呼吸はあると云うこと。


つまり我々を離れた何かが我々に呼吸をさせてると云うこと。


その何かこそが生命である。


呼吸と一つになるとは生命と一つになること。


生命と一つになることは思考を離れ「あるがまま」になることである。


様々な流派のヨガが「呼吸をコントロールして」と言う表現を使うが、コントロールとは「支配する」と云う意味がある。


しかし我々は生命をコントロールすることは出来ない。


なのでハートオブヨガでは「呼吸に寄り添う」と表現する。


その呼吸に寄り添う方法がアーサナなのである。


だから呼吸をするためにアーサナがあるのであって、その逆ではないのである。


そしてその呼吸の呼くことは男性性、力、死、穢、邪等々を表し、吸うことは女性性、受容、生、浄、聖等々を表す。


呼吸は両極性であり、クンバカは男女不二、生死不二、浄穢不二、聖邪不二等々である。


つまりクンバカを意識することは不二一元の境地を意識すること。


呼き続けて吸うことがなければ死んでしまい、また吸い続けて呼くことがなければ死んでしまう。


だから出て行った呼気と入ってきた吸気をつなぐのがクンバカであり、それを意識するのを呼吸のバンダと云うのである。


それは生命力を強化し、生命力を強化することは呼吸に寄り添うと云うことである。


つまり呼気と吸気の出逢いの場がバンダなのである。


呼吸に意識を向けた時、それは自然と湧き起こってくる。


これをタントラ的に例えてみよう。



◎出逢いの結び目・繋ぎ目


あなたが本気で好きになった人がいるとしよう。


顔が好みだから、スタイルが良いから、性格が良いから、趣味が合うから等々。


言葉で言えばそういう説明になるかもしれない。


でも、顔が好みでスタイルが良くて、性格が良くて、趣味が合う人すべてを好きになる訳じゃない。


その中でもこの人でなきゃと思える人が本当に好きになった人と言える。


性欲の赴くままとは違い、そして単なる知識とも違う。


よく女性が好みのタイプを聞かれ、年収はいくらで背が高くてなんて言ってるのは相対的価値観なので純粋なものではない。


そして男性が美人が良いの料理が上手いの言ってるのも同じ。


嗚呼、何故かこの人に惹かれる。

 

これが純粋に好きになると言うこと。


きっかけは重要だが理由なんか探す必要はない。


好きになってしまった…


それだけで良い。


そんな想いを持って相手を意識した時、そしてお互いが見つめ合った時、すでにヨーガが始まっている。


さて、そんな気持ちを持ったらその相手に触れたいと思う(呼気)。


象徴的に言えば好きになった相手と手を握った時、これが第一のバンダ。


更にその相手を包みたい、包まれたいと思う(吸気)。


象徴的に言えば相手を抱きしめた時、これが第二のバンダ。


ここまで来たら後は自然と相手とつながりたい、一つになりたいと思う。


そしてお互いの呼吸が交じり合い重ね合ったとき(不二)


象徴的に言えば結ばれた時、これが第三のバンダである。


つまりお互いの呼吸がピタっと合った時、お互いの呼吸がお互いを包んだ時、自然とバンダは湧き起こってくるのである。


ハタとは「両極性」、ヨーガとは「結び付き、つながり」であるならバンダとは「結び目、つなぎ目」のこと。


この両極性の結合は何も男女関係に限らず本来バンダは自らの内と外でも、自らの周囲でも、人間関係でも、森羅万象すべてに自然と起こっていることなのである。



◎縦の糸と横の糸


このようにバンダを技術と云うなら人生の関係性においての技術であり、況してやどんなに何万回もバンダをやっても人生との繋がりを感じられなければ、それは上手くバンダが出来てるとは言えない。


バンダとは上と下、前と後、左と右、そして男性性と女性性、すべての両極性の二元対立を超え不二一元のありのままの境地をその本質とする


「聖なる出逢い」


なのである。


つまり我々は呼吸を通して大宇宙、大生命とバンダされ、この様々ところで沸き起こる無数のバンダが無尽に織り成す大いなる奇跡として「いま、ここ」に現れてるのである。



そもそもスートラとは縦糸と云う意味があり、タントラとは横糸と云う意味がある。


歌にもあるように縦の糸はあなた、横の糸は私、織りなす布を感じ取ることが出来た時、いつか誰かを、そして何より自らを温めうるのがハタ・ヨーガでなのである。




あなたに大切な人がいたらバンダを感じて下さい。


もし緩んでいたり解けそうになっていたら、深く呼吸をして、そっと結びなおしましょう。


愛こそ最強のバンダなのだから…



「真のタントラ、真のヨガは、関係性そのもの。わたしはいつもこう言っています。そして、その親密さ、友情、個を超えた大いなる友情関係を誰かと築いているという深い充足感。それこそが真のヨガ、命との真の親和性なのです」byマーク・ウィットウェル/和訳:川原朋子


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