(前記事からのつづき)

しとしとと、雨のふる明け方に錦の傘が翻(ひるが)えることは衆生を利益(りやく)する様であり、嵐に煙る夕暮れに黄金の甍(いらか)が月の光に輝くように和光垂迹(わこうすいじゃく)の神々の威光は明らかです。

神王や神臣などの位の神々は、出現され列座されています。

僧形(そうぎょう)や俗形(ぞくぎょう)の神々は粧(よそお)いをこらされています。

神の妃や、采女(うねめ)たちは裾帯(くんたい・スカートのようなはきもの)を着け、神王の前後にいらっしゃいます。

天童や霊官は、衣冠(いかん)を整えて左右に仕え、大力(だいりき)の夜叉は門々を護衛し守り、威猛な神兵は道々を守り固めてとりかこんでいます。

それぞれの部類眷属(ぶるいけんぞく)は、天地に集(つど)い雲のようであり、霞(かすみ)のようであります。

これら権現(ごんげん)せる化身の神々は、所に随って、衆生に応じその働きは、あるときは主(中心)となり、あるときは、伴となります。そして相互に補足します。

ことに此の社の権現(その祭神により名を入れ変える)は、慈悲萬行(じひまんぎょう)の御名の響きわたっている日本国有数の霊神です。

太陽となり月と現れるその光の徳を、万国だれか戴かない者がいるでしょうか。

雲となり、雨となるその姿、天が下でその潤いを受けないものがありましょうか。

ですから、この社に、大衆が林のように集まり、僧俗は道を競って詣でます。

その高き社殿を仰ぎ見て、一日中神々の御誓いの慮(おも)いに信をいたします。

宝石のような甃(いしだたみ)が煖(あたたま)るようなくらい、夜通し私の眸(まなじり)を神々の慈悲の尊容の御姿に向けます。

神々が頼もしいことは父より頼もしく、睦(むつ)まじいことは母よりも睦まじいものです。

ですから、心に願う祈りは、神々に恥じることはありません。

我が身の上の愁いごとはただ神道(神のおしえ)に訴え、祈ります。

このことは過去世の因によるところです。

またあるがままの為すところです。

現世のため、また、来世のため、神々にお報いいたします。


(つづく)