『大分県日出町 イスラム土葬墓地開設正式合意へ』というニュース(→詳細はこちら)を知って、私は渡米前の準備期間約4年間(2006~2010年)を製造派遣社員として杵築市に住んで日出町の工場に働きに行っていたので、ちょっと興味深かった。

短期間(概ね5年以内)に次のステップ(人生設計上の)を描いている人にとって、当時の製造派遣業はかなり有用なシステムで、住居は人材派遣会社が寮として1Rのアパート1室を家電や布団までリース完備で用意してくれる(もちろん寮費は払うが、礼金、敷金や家電購入費の出費はしなくて済む)し、工場までの足は社の送迎車(別名護送車とも言われたが)が出る。

自家用車を持っている人は、繁華街までは不便だが工場に近く寮費も安い日出町に住んでいたが、私は車を持つつもりはなかったので、賃料は少し高くても徒歩で役所やスーパーに行ける杵築市の寮を選んだ。

2006年当時、製造派遣業界は売り手市場で(募集年齢制限40歳のところを当時45歳の私が採用されるような有様だったからな)、半年毎の契約更新も形式的なものだった。

 

私は製造業は初めてで、1年くらいを組み立てラインの検査やクリーンルームで過ごしていたが、突然、事務にスカウト(?)されてデスクワークになった。
工場とは別棟のプレハブの建物の中に各派遣業者の事務所があって、私もそこで事業所長やその下の幹部と一緒に働くことになった。

私は従業員の勤怠や給与計算、入退社手続き、その他従業員関連の事務的雑務を担当していたが、毎日のように全国各地(比重としては九州・沖縄が多かったが)の採用事務所から照会があり、毎週新入社員を受け入れていた。

 

ついには年齢制限を撤廃してシルバーライン(60歳前後の人の製造ライン)が出来たくらい人を必要としていた。
最盛期は200~300名は居たが、それでもその工場の中堅クラスの派遣会社だった。

ある時、避難訓練があって、工場の正社員・直属の期間工社員に加えて派遣会社社員、つまり工場従業者全員がグラウンドに集まる機会があって、派遣会社はそれぞれの旗(団旗みたいな大きいヤツ)を目印に掲げていたが、それが10旗くらいは出ていたのを記憶している。
もちろん、派遣会社も全てが製造に携わっているわけではなく、清掃や食堂に携わる業者も含まれる。

ざっと、派遣会社従業員は2,000人規模に見えた。

日出町、杵築市一帯は製造派遣城下町化していた。

 

地主は1Rなど主に単身者向けアパートを建てて派遣会社に長期で貸していた。
派遣会社には寮担当がいて、ゴミ出しマナーや退去時の清掃・修繕なども監督するから、管理も自前でしなければならない個人賃貸業より手間いらずで安定していた。

反面、街に製造派遣労働者が増えると軽犯罪も増えた(人生に絶望し開き直った流れ者もいるので)。
なので、派遣会社は地域の警察署と連絡協議会を作ってマメに情報交換をしていた。
医療現場でも診療費をばっくれる(持ち合わせがないとか言って)ヤツが現れ、毎月末は病院から名指しで催促の連絡が入ったりしていた(その度、事業所長は説教していた)。

そうやって地域も染まり、対応に慣れていったところで、

2008年9月、リーマンショックの直撃を食らったのであった。

(つづく)

 

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