″親と子の魂は別″を実感する | ワンダー山本のブログ

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日々感じること、今凝ってることなど綴っていきます。
ややスピリチュアルにも寄っていくかも。

「あの田舎の駅の周りには、本屋が無かった。それがホントに嫌だったなあ。」

と、私が当時の実家の最寄駅の側には本屋が無かった、ことを悔やんで、そう言うと母はキョトンとしていた。

「へえ、感覚がこんなに違うんだあ。」と心の中で驚いた。

母とは、この辺りの感覚は、すんなりと共有出来ると思っていたからだ。


10代の頃以来の母との同居が始まって、早6年だ。

最初の頃は、3人の子供達も全員いたので、大変だった。

綺麗好きな母は、乱雑な我が家に仰天し、ヒステリックになりながら、清掃を心がけてくれた。

仕事で、家事に手が回らない私には、かなりの助けになった。


巣立ちが始まって、子育ての完了が見えて来ると、同居する母との時間が増える。

母とは、人生で出会ったものによる影響、例えばファッションとか、音楽とか、世代によって大きく変わるもので違いはあるものの、それ以外はきっともっと似ていると思っていたけれど、どうもそうでは無いな、ということが最近分かってきた。


小学生時代にあれほど、本好きをアピールしていたつもりだったけれど、よくは分かってなかったらしい事が半世紀後の今になって判明した。

学校の休憩時間に外に出て遊ばないといけないというルールがあって、教室で本を読んでいたかった私は、図書館に逃げ込んだ。

そこも見つかって、追い出された。

それでも抵抗を試みていた私には、母にはそれが見えてなかったんだなあと思うと少しショックではある。二人の弟もいたから、考えてみれば仕方がない事だ。


そう言えば、子供達とも、随分と価値観が違うと感じる事も多くなってきた。


価値観の違い、それは、巣立ちの大きい力にもなり得る。


巣の中よりも、もっと自分が生きるべき場所があるという事を予感させるものだからだ。


母を見る目線を逆にすると、私も子供達からそういう風に感じられているのだろう。


気付く内容やタイミングには、色々あるんだろうけれど、私は手元に子供を置いておきたいとはあまり思わないタイプなので、新たな自分に合った居場所を見つけて羽ばたいて欲しいと思っている。

母の話から、子供の話になってしまった。


それにしても、小学校時代の事が、ネタに出る頻度が高いなあと思う。

私自身の心の旅をもう一度その辺りから始めろ、という天の采配であろうか。