天皇陛下  日本と韓国との人々の間には,古くから深い交流があったことは,日本書紀などに詳しく記されています。
韓国から移住した人々や,招へいされた人々によって,様々な文化や技術が伝えられました。
宮内庁楽部の楽師の中には,当時の移住者の子孫で,代々楽師を務め,今も折々に雅楽を演奏している人があります。
こうした文化や技術が,日本の人々の熱意と韓国の人々の友好的態度によって日本にもたらされたことは,幸いなことだったと思います。
日本のその後の発展に,大きく寄与したことと思っています。
私自身としては,桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫であると,続日本紀に記されていることに,韓国とのゆかりを感じています。
武寧王は日本との関係が深く,この時以来,日本に五経博士が代々招へいされるようになりました。
また,武寧王の子,聖明王は,日本に仏教を伝えたことで知られております。
 しかし,残念なことに,韓国との交流は,このような交流ばかりではありませんでした。このことを,私どもは忘れてはならないと思います。

 ワールドカップを控え,両国民の交流が盛んになってきていますが,それが良い方向に向かうためには,両国の人々が,
それぞれの国が歩んできた道を,個々の出来事において正確に知ることに努め,個人個人として,互いの立場を理解していくことが大切と考えます。
ワールドカップが両国民の協力により滞りなく行われ,このことを通して,両国民の間に理解と信頼感が深まることを願っております。

http://www.kunaicho.go.jp/kisyakaiken/kisyakaiken-h13.html
宮内庁ホームページ



天皇陛下のお言葉どおり。日本の歴史書である日本書紀、そして桓武天皇が編纂した続日本記(日本書紀の続編)に記録があるとおり


『日本書紀』の記述 <ウィキペディアより>
武寧王の出生の話として雄略天皇紀5年(461年)条に、「百済の加須利君(蓋鹵王)が弟の軍君昆伎王を倭国に人質として派遣する際、一婦人を与えて、途中で子が生まれれば送り返せと命じた。一行が筑紫の各羅嶋(かからのしま・加唐島)まで来たところ、一児が生まれたので嶋君と名付けて百済に送り返した。これが武寧王である」としている。


佐賀県の北部玄海灘に面した呼子漁港から定期船で20分の加唐島というところで武寧王が出生した洞窟が遺跡として特定された。日韓の歴史学者の交流と研究も行われている。島では観光スポットにもなっている。
当初、韓国側は自国の王が日本で生まれたとする日本書紀の記述に拒否感があり史実として認めていなかったが1971年に武寧王陵が出土され埋葬されていた墓誌の生年と日本書紀の記述が符合することで日本書紀の正しさを韓国の歴史学者も認めざるをえない結果となった経緯を新聞(共同通信記事と記憶)で読んだ記憶がある。

武寧王の子孫 <ウィキペディアより>
523年の武寧王没後、百済王を継承したのは聖王(余明)であるが、『日本書紀』は514年に百済太子淳陀が倭国で死去したと伝える。武寧王の本来の太子は淳陀であるが、倭国で死去したために余明が代わって太子となったという解釈も可能である。この淳陀太子がいつ倭国に来たのか記載はないが、一部には武寧王は若い頃倭国に滞在しており、淳陀は倭国で生まれ、そのまま滞在していたと主張する説がある。
『続日本紀』によれば、桓武天皇の生母の高野新笠は、この淳陀太子を遠祖とする百済系の帰化氏族和氏(やまとうじ=高野新笠の父 筆者注)の出自であるとしている。新笠は皇后になることはできなかったが、桓武天皇の生母として皇太夫人、更に皇太后と称された。。



<資料>



百済王 筑紫の加唐島に出生す ~その1~ 2002年06月

http://www.atkyushu.com/InfoApp?LISTID=202&SCD=m200206 あっと九州.com より


■海の道に生まれた王

 昨年暮れ、サッカーのワールドカップを共催する日韓両国に一つの衝撃が走った。天皇陛下の「ゆかり」発言である。誕生日を前に、W杯共催国である韓国への思いを聞かれた陛下は、こう答えられたのだ。
「私自身としては、桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫であると、続日本紀に記されていることに韓国とのゆかりを感じています」と。
 皇室と古代朝鮮との結びつきを論じる学説は以前からあったが、天皇自らが、その血縁関係に言及されたのは初めてのことであった。この言葉をめぐっては、日本よりもむしろ韓国内が騒然となった。
 金大中大統領は「歴史に対する正しい認識を示された」と、天皇発言を高く評価し、テレビ局は特番を組んでこれを紹介した。歴史教科書問題や首相の靖国神社参拝問題など、歴史認識をめぐっては、日ごろ日本に厳しい韓国のマスコミも、こぞって好意的な反応を示した。
 そんな両国の関心が高まるなか、九州の一つの島が、日韓の歴史学者や古代史ファン、マスコミの注目を集めている。それは佐賀県鎮西町、東松浦半島の沖合約三・五に浮かぶ加唐島である。
 周囲十四・六、人口二百四十人余りの小さな島だが、古くから朝鮮半島との交通の要衝として知られる。
 今から約一、五○○年前、この海の道で、古代朝鮮を代表する一人の王が生まれた。中興の祖といわれる、百済二十五代王・武寧王(ムリョンワン)である。
 九州の小島に生まれた朝鮮の王。この不思議な、武寧王生誕伝承は、八世紀に編纂された『日本書紀』にも載っている。
「雄略五年(四六一年)六月、百済王の婦が筑紫の各羅嶋で児を生んだ。島で生まれたので嶋君と言う…」
 この各羅嶋が、現在の加唐島であることは想像に難くないが、嶋君と呼ばれた王は一体誰なのか。実は、古代朝鮮の史書『三国史記』『三国遺事』は、武寧王の実名を表す諱を「斯摩(斯麻)」と記している。
 この斯摩が嶋君で、加唐島で生まれたのは武寧王と考えられる。だが、あいにく、どちらの史料にも王が日本で生まれたという話はない。
 また、没年齢から推定される生誕年の違いや異なる系譜、さらに『日本書紀』の上代の記述の不明さなども手伝い、長い間、武寧王の加唐島生誕説は伝説の域を超えなかった。
 ところが二年ほど前、「武寧王の出世地は加唐島」とする説が、韓国の史学雑誌に掲載された。国内に物議をかもすのを承知で、論文の発表に踏み切ったのは、韓国・慶北大学校の文 鉉名誉教授である。
 当時、文教授の論文は国内の研究者の間からも反発が上がったという。自国の王が日本で生まれたという説は、韓国の人々に強い違和感を与えたのだ。そこには、一衣帯水の地にありながら容易には埋まらない、両国の深い亀裂が横たわっている。それでも「学者として、真実を明らかにしたかった」と文教授は述べる。


■注目される生誕伝説

 昭和四十六年(一九七一年)、文教授が論文を発表する三十年ほど前、韓国の忠清南道公州市の宋山里古墳群で、新しい王陵が見つかった。
 それが、加唐島に生まれた武寧王の陵であった。この王陵の発見は二重の意味で関係者を驚かせた。
 その一つは盗掘を免れたため、(レンガ)を敷き詰めた美しい墓室や豊かな副葬品が残されていたこと。もう一つは、墳墓自らが墓主を明らかにしたことである。玄室につながる道に置かれた墓誌石がそれで、これは土地の神から土地を買い取った契約書「買地券」とされている。
 誌石には「斯麻王」の文字とともに、在位二十三年(五二三年)に、六十二歳で崩御したことが刻まれている。その数字から逆算すると、武寧王の生誕は四六一年。これは『日本書紀』の記述と同じである。
 少なくとも、この時代の『日本書紀』の記事は正確であったことが証明されたのだ。文教授はこの買地券を手掛かりに十年前から本格的な研究に着手。加唐島を現地調査した上で、武寧王生誕は間違いないとした。


この考証を受けて、今年一月、鎮西町で武寧王にまつわる国際シンポジウムが開かれた。日韓の研究者はいくつかの疑問を残しながらも、文教授が説く加唐島出生説を支持した。
 シンポジウムのパネリストの一人、九州大学名誉教授の西谷正氏は「買地券が見つかったことで、王の名前や亡くなった時の年齢、生誕年などが裏付けられた。加唐島についても、韓半島から対馬、壱岐と島伝いに海を往来した当時の状況を考えれば、まさしく倭国と韓半島の架け橋の一つ。物的証拠はなくとも、状況証拠から十分考えられる」と語る。
 西谷教授によれば、六世紀から七世紀、武寧王のころの韓半島はいわゆる三国時代。西の百済と北の高句麗が対立し、百済には、中国の南朝と倭国(日本)が、高句麗には中国の北朝と新羅が味方について、戦闘を繰り返す時代だった。倭国にとって、当時の百済は先進国。最新の文化も先端の技術も、多くは百済を経由して日本に入った。また、韓半島の東南部にあった加耶は、鉄資源の一大産地であった。このころ、原料の鉄と一緒に技術者集団が少なからず日本に移り住んだとされる。
 そういった百済の貴族や加耶の渡来人の中には、政権の中枢にまでのぼる者も少なくなかった。ゆかり発言に登場する桓武天皇の生母も、そんな渡来人の一人であったという。
 それだけではない。逆に倭国から百済の宮廷に入り、出世した倭人もいる。つまりこのころ、韓国と日本の間には活発な交流があり、官から民まで、玄界灘の島々を結ぶ海の道を自在に行き来していたのだ。。



<ブロガーの声>

☆週刊新潮とか、週刊文春とかを立ち読みをしたが、あまりにも記事の内容がお粗末すぎて、買う気も起こらない。ゴシップ雑誌と五十歩百歩。 [記録]
[ 2009/12/28 09:27:07 ] [ twitter ]

☆[社会]【韓国ブログ】小沢氏の「天皇家は韓国から来た」発言、韓国の反 - 12月12日に韓国を訪問した民主党の小沢幹事長が、「天皇家は韓国から来た」との発言をしたと週刊新潮が報じ波紋が広がっている。... http://bit.ly/8dllIj

☆歴史の解釈というか、理解において
ずいぶんと国民の認識の違いがあるものと思われることが続いています。
最近では小沢民主党幹事長の一連の発言があるけれど、
あれをもって「不敬罪」だと書いている「週刊新潮」に至っては、
どうにも、まぁ、という感想を持たざるをえない。

☆以前、あるひとから真顔で、
「天皇は百済の国から来たと、公式に発言した」
というように言われて、「え、それ何? 本当に?」と
聞き返したところ...
[ 2009/12/27 07:07:37 ] [ livedoorブログ検索 ]

☆今日電車の中吊りで気になった週刊新潮の記事、小沢さんの発言「天皇は韓国から来た」。日本が誇る、現存する世界最古の皇室に対する日本の実質トップの発言です。

☆「週刊新潮」は相変わらず、黒い瘴気をプンプンさせてるなぁ。あれを読むと、品格が落ちそうな、魂が汚れるような気がする。
[ 2009/12/27 00:09:52 ] [ twitter ]

☆それにしても週刊新潮、相変わらず中吊り攻めすぎ。どんだけ生き神様嫌いなんだw

6:07 AM Dec 26th movatwitterで

☆④ 言論的テロをみずから実行してきたがごとき『週刊新潮』
(http://pub.ne.jp/bbgmgt/?entry_id=2630030/社会科学者の時評)

 以上のような,日本人・日本民族の深層感情に潜む反撥を煽動的に喚起させようと書かれたのが,『週刊新潮』2009年12月31・1月7日号「『天皇家は韓国から来た』喝采を浴びた『小沢一郎』幹事長 ソウルの不敬発言」である。
 
 しかし,一般庶民の,素朴ながらも起伏に富む〈朝鮮嫌い〉〔ただし,韓流ブームは大好きで韓国を好きだと答える日本人も,以前に比較すれば画期的ともいえるほど多くなっているのに〕に潜む無知・無学をいいことに(→梃子に使い),故意にかつ意図的に『皇室崇敬の念を無条件に強制するような,それも不敬罪的な発想』を煽りたてようとしているのが『週刊新潮』2009年12月31・1月7日号のその記事である。それも多少大げさにいうと〈策謀的な企画になる記事〉といえる。

 もっとも,週刊新潮の編集部・執筆者も,日朝古代史の真相をよくしらず専門知識にも欠けていたとすれば,これは彼らの無知蒙昧をみずからさらけ出すだけでなく,言語道断の報道姿勢であるとも,いわざるをえない。その歴史に関する知識をもっていて,それでも,この最新号のような記事を造ったとすれば,間違いなく「確信犯」。こうなると,日韓および日朝の親善友好の関係構築に水を指すどころか,わざと油を注いで放火するような〈イエロー・ジャーナリズム的な報道精神〉の本領発揮である。

 それにしてもおかしい,矛盾していると感じるのは,「不敬罪をとなえるかのように騒ぎたてる」陣営の人びと〔=輩(ヤカラ)〕がいったいに,みずから「平成天皇の御心・御意」を完全に無視・否定していることである。『週刊新潮』の記事見出しはそれこそ,きわめて鮮明に,天皇に対して「不敬なる宣伝文句」を広告:展示している。

 なぜかといえば,「天皇御自らが日本の天皇家は朝鮮〔韓国〕王朝とは親戚ですよ」といっているのにもかかわらず,小沢一郎民主党幹事長が韓国の大学での講演のなかで「平成天皇の発言を敷衍したかのような話として,天皇家は朝鮮出身という話」をした事実に触れて,これを週刊新潮のように非難・攻撃するのは完全に,戦前版でいう「天子様の御心・御意」に叛く〈不敬罪〉〔という法律があればだが〕に相当する。

 『週刊新潮』はわが身のつたなさ・無識加減を棚に上げて,まさに「天に唾する言論テロ」的な所業をした。愚の骨頂。こうした言論による専横で暴力的な振るまいをいさめ,批判する・できるまともな言論関係者がいない。日本の言論界は荒涼とした風景を眼前に繰りひろげている。。





<山の中コメント>
ざっと、これだけツイッターやブログに反応あり。くだらないという声や記事を冷静、客観的に受け止める声が多い。
「あれを読むと、品格が落ちそうな、魂が汚れるような気がする」これを読んで自分だけじゃなかったと安堵した。同時にその理由を考えると、天皇の御心を汚しているのは週刊新潮の記事のほうだからだというところに行き着く。