今日の図表は、ホーキンズ博士によって人類史上初めて明らかになった事象を示しています。

 

意識レベル850で、人は、本当の死を経験します。あなたの個性を彩っているのは、小文字のsで始まるself/小さな自己/自我/エゴです。そのエゴは850の時点で、永遠にあなたの意識から消え去ります。その時の自らの経験を、ホーキンズ博士は語っています。

 

「すべては、神に委ねられました。その時、小さな自己の本当に最後の残余は、有罪と宣告されると共に、エゴそのものの核、-命の根源に見えるものとして残ります。それは人類のまさに生命と、存在の原初的根源であり、そして権威です。この状態が生じた時、それは『さらに、なおそれ』は、神に譲り渡さねばならない知識です。この最後の障害は、その最後に残っている恐怖について、突然、破裂による信号があり、それはとても強く、激しいもので、-基本的に死への強い恐怖感です。その時、叡智は浮かび上がります。スピルチュアルのオーラによる原初のもので、‘すべての恐怖は幻影’であり、そして‘死を経験することは不可能’です。従って信頼と献身の結果として、最後の幻影は放棄されます。次に実際、文学的な死の恐怖についての感覚、-この瞬間、とても強烈に痛みます。しかし肉体的死とは異なり、今まで決して直面したことのないものです。これは、唯一最後の可能な‘死’です。死の苦しみが去ったとき、神性の永遠の恩寵について、明らかにされる経験があります。このエゴ/マインドの最後の残余は、実在の静寂の中に消え去ります。神性としての『創造主の十全性』にあっけにとられ、その完璧さと美しさは、その姿を現して輝き、すべてはすでに経験を超越し、『神よ、いと高きところにて栄光あれ』は『その状態そのもの』です。」

(『Transcending the Levels of Consciousness: The Stairway to Enlightenment』より)

 

図表のバガヴァッド・ギーター、ウパニシャッドと、ヴェーダ聖典はヒンズー、黄檗禅師は禅、ラムサ版英訳聖書(新約のヨハネの黙示録を除く、旧約の創世記、箴言、詩篇以外を除く)と、ニケア会議(325年)はキリスト教、ゾハールはユダヤ教です。

 

 

ちょっと脱線。

 

私は、博士のスピリチュアルの11冊全編を、ほぼこの水準にて訳しています。

 

邦訳の2冊の英語原典は、それぞれ『999.8』と『850』で計測(較正)されるものの、現在発刊中の邦訳は、共に500というスピリチュアルのレベルを完全に下回り、理性のレベル、すなわち一般的な哲学書のレベルまで、真実を歪めて出版されています。

 

私の訳は、ある出版社の方から、逐語訳で研究用と評価されましたが、「はて?」

 

どうも、日本では、スピリチュアルの真実が公になることは好ましくないと思われる方々がおられるようで・・・。

 

閑話休題。

 

前述の博士の論述からも分かるように、一般的に悟りの後の「『空/無』になる」と呼ばれている現象は、スピリチュアルの真実において、エゴの消滅を表していると博士は述べていると分かります。

 

元々、空や無は、サンスクリットの数字の『0』を意味するもの。

 

すなわちそれは、あらゆるものを含み、あらゆるものの起源であるということですね。

 

この宇宙全体のエネルギーの総計よりも、1立方センチメートルあたりの空間の潜在的エネルギーの方が、はるかに大きいと量子力学で判明している通り、目に見えないところから、私達の目の前に現れ、その空間は微細な粒子で埋め尽くされ、無限の次元を有しています。

 

『空/無』について、私達の一般的な解釈は、まさに何もなくなってゆくこと、あるいは何もないといった、そのようなものです。

 

しかしながら、神とは、愛こそが、その本質であり、今あるものが無くなるということはあり得ません。

 

「かつてあったことは、これからもあり

かつて起こったことは、これからも起こる。

太陽の下、新しいものは何一つない。

見よ、これこそ新しい、と言ってみても

これも、また永遠の昔からあり

この時代の前にもあった。」

『コヘレトの言葉、1:9-10』

 

因みに、この850を超えたレベルに達した賢者で博士の著作で紹介されているのは、アブラハム、モーゼ、洗礼者ヨハネ、聖ピエトロと、黄檗禅師(Huang Po, Zen)ですが、忘れてはならないのがホーキンズ博士、その方です。

 

同書には、およそ有史以来50%もの期間、意識レベル600を超えた賢者がひとりもいなかったと書かれていました。