あなたは、もうお気づきでしょうね。
明かに200未満の政治体制を求める左派の人達の多くは、平等な社会を理想に掲げているにもかかわらず、自分がそのトップに立ちたいという願望を持っています。マルクス主義、ポストモダン主義や、ユダヤ、キリストと、イスラムの原理主義を唱える人々も、結局のところ同じ結果に終わります。 ゆえに彼等は「有用なバカ者」と陰で呼ばれます。
その心理をグローバル資本家達は、実に巧みに利用しています。 彼等は、権力とお金を、「有用なバカ者」達に与えることと引き換えに、それら左派の人々の生殺与奪を握り、言いなりにさせています。結局浙江財閥(太子党)も同じ穴のムジナですね。
しかしながら、19世紀からの日本も、実は大きな間違いを犯していました。確かに、アメリカとの戦争は、開戦前の8月に石油の禁輸等に起因し、当時の国際法において米英が先に、宣戦布告したものと、解釈出来ます。まさに日本は法的にも自衛戦争でした。マッカーサー元帥は、後に議会の公聴会で「日本に非はない」と明言しています。彼は、DSの指示によってGHQの政策を実行したといえるでしょう。
そうは言っても、その戦いにおける精神的基盤に、大いに問題がありました。ひとつ目は、天皇陛下を太陽神の子孫としたこと。ふたつ目は、靖国神社に英霊と称し、明治政府以降、戦争屋といえるDSの傀儡に殺された人々を祀ったことです。すなわち日本政府は、被害者を神と祀り上げ真実を歪曲しました。
神道の間違っている点は、古代において戦いにより殺害されたライバルの首領を神と祀ることなどにあります。殺された人達は、犠牲者であるものの決して神ではないです。さらに戦死者を神と祀るものの、西郷隆盛や会津藩の出身者の戦死者は祀られておらず、道徳的相対主義に落ちいています。いまだに神権政治を日本政府は行っているに等しいといえます。
神権政治に良くないところと共に、人を神と祀る時、人は、本来『愛』を集積するハートチャクラに、好戦的エネルギーをため込み、その人は、血に飢えた戦士/死への執着を引き起こし、獣性を剥きだしするため危険です。念のため申し添えます😅
「私達の思考について、感じているプライドの代わりに、ただそれらを愛することの何が悪いのでしょうか?その美しさの理由から、そのインスピレーションの特性の理由から、もしくはその役に立つ理由から、まさに特定の概念を、何故、愛せないのでしょうか?私達が、その観点で、思考を考察するならば、もはや『正しい』存在としてのプライドは必要ありません。もしも私達が、自分の好き嫌いに関して、同じ観点で思い描くならば、私達がもはや理屈っぽい性質の傾向はなくなります。例えば私達が、その作曲家の音楽を愛しているならば、私達は、もはやそれを弁護する必要はありません。私達の仲間も、またそれを愛していることを、私達は望んでいるでしょうが、しかしもしもそうではないとしても、悪くても私達が感じることが出来るものは、私達が個人的に評価し楽しんでいる何かを、分かち合うことが出来ないというマインドの失望です。」
(『Letting Go: The Pathway to Surrender』149頁より)
「好き嫌いにプライドは不要」のため「その美しさ」や「そのインスピレーション」や「役に立つ」ため正しいという概念は不要という言葉に、私は『愛』の本質をみます。
