あなたはお気づきでしょう。

 

『神』を正しく認識するのは、簡単なことではありませんよね。

 

『自然神』という言葉は、アメリカの独立宣言に明記されていたため、私は若い頃から知っていて『フツーのこと』として受け入れられたものです。私は「神は唯一の存在なのに、どうして、宗教宗派に分裂しているのか?」と幼い頃から疑問でした。

 

わざわざ『自然神』と呼ぶことに、私はホーキンズ博士の著作を数冊読むまで分かりませんでしたが、とにかく神のお言葉なればこそ、真摯に聖書に書かれていることを受け入れねばなりませんよね。

 

しかしながら、私は幼い頃から、例えば「アダムとイブの話や、ヨハネの黙示録など、どう考えても作り話ではないか」と懐疑的で、「それを信じなければキリスト教徒になれないなら、私はキリスト教とは無縁だ」と感じていました。

 

ところが、大学でアメリカ政治を学んだことで、「やはり聖書を、もっと勉強せねばなあ」と思い、折に触れ関連書籍などを通して学んできたものです。

 

すると、やはり聖書には多くの神話や寓話のあることは、以前から明らかになっていることを知りました。

 

なんで修正しないのか?」や「なんで修正出来ないのか?」という疑問は、まさに「まあまあ!固いことは言わずに!」といった『大人の事情』ですね。その『大人の事情』という問題に、私は、この半生で答えを求め続けた結果、ホーキンズ博士の『意識マップ』と出会い、完璧な答えを見つけることが出来たということ

 

それほど、正しい『神』の知識を理解するのは、途方もなく大変なことと、しみじみ分かりました。

 

ゆえに、ブッダは、『悟り』の追求のみに焦点を当てるなら、神についてのあやふやな理解は毒であると考え、その結果、大乗仏教経典に神への言及がないと言えるでしょう。

 

現代人類の96%を占める意識レベル500未満の方々に正しい神の理解を求めるのは、相当困難な事かと。ゆえに世界的大宗教の神と区別するために『自然神』という言葉を用いるのですよ。

 

さて、どうして人は意見が異なるのか続きを、みてゆきましょう。

 

意識レベル200未満は、コンテント(content:内容/中身/個々の事象)のみに焦点を当てます。

意識レベル200から500未満は、コンテントに加えコンテクスト(context:背景/前後関係/情況)にも焦点を当てます。

意識レベル500以上600未満では、コンテクストでコンテントにも焦点を当てます。

意識レベル600以上ではコンテクストのみに焦点を当てるということ。

 

意識レベル200未満で人は、自己陶酔(narcissistic)に陥ります。神により人類はこの地上で最も高い能力を授かっているため「自分はすごい」と思うのですが、しかしそれは無智によるのですね。

意識レベル200から500未満で人は、自分や家族のことだけではなく、周囲や社会の人々(self plus others)の福利にも目を向け始めます。

意識レベル500以上600未満で人は、「愛は与えることで自分に戻る」ということの本当の意味に気づけるため、無私行為(selfless)を自然に出来るようになります。

意識レベル600以上で人は、本当の自分は小文字で始まるself/小さな自己/自我/エゴではなく、大文字で始まるSelf/偉大なる自己/真我/アートマンであることに気づきます。

 

人の知能の発達は、図書館にある本の数でも、そのすさまじい知性が「何か」を求める意欲の貪欲さを表していると言えるでしょう。しかしながら、知性には限界があります。

 

何故なら、知性で神を把握することは不可能だからです。博士は人の知性では本当の意味で神の能力が無限であると言う意味を理解出来ないと述べています。

 

そのように不可能にもかかわらず、人は理性の限界の499まで利用し、哲学は生まれました。しかし神は主観的な気づきです。

 

それは、意識レベル200を超えて初めて知覚され始め、その本質を直観出来るためには意識レベル500を超えねばなりません

 

神を実感している方と、頭で神を考えている方、あるいは神など全く無縁の存在とみなしている方とでは、物事に対する見方は、当然違う訳です。そのように見方の違う人々が、世論調査や、多数決で物事を決めることが、どれほど危険か、火を見るより明らかですね。

 

ゆえに、スピリチュアルの真実の教育が、いかに重要かお分かりいただけるかと。