アートマンを知ることは、アストラルの楽しみです。
「多くの者は、アートマンについて聞くことを許されない。多くの者は、それを聞いても、それを理解しない。それを語るものは驚くべきかな。それを学ぶ者は聡明なるかな。良き師に教えられ、それを理解し得る者は幸いなるかな。
アートマンの真理は、無知なる者に教えられた時には、完全には理解されない。何故なら、それに関する見解は、知識に基づいていなければ、ひとつ一つ異なるから。このアートマンは最も微細なるものよりも微細であり、あらゆる論理さえ超えている。アートマンとブラフマンが一つであることを知る側に教えられて、人は無益な理論を捨てて真理に到達する。」
(『ウパニシャッド』日本ヴェーダーンタ協会、2009年:カタ・ウパニシャッド、50頁より)
スピリチュアルを追求し始めるというのは、あなたの背中を神が押されたからです。
何故なら、あなたと神のご意志が一体となった時のみ、あなたの意識の成長は起きるからです。
いずれにしても、人類の意識の成長は、神に保証されています。
しかしながら、現代人は、マテリアル(物質世界)の諸事よりも、スピリチュアル(精神世界)の諸事が重要であると、どこかで気づいているものの、日常生活に手いっぱいなので、視点をスピリチュアルに向けることは、まずありません。
そこで、大きな災難や災害により、神は、あなたにスピリチャルに気づくよう促すことに。それがスピリチュアルであるとは、気づけない場合もあります。
例えば、私は、今からおよそ30年前、大きな交通事故に遭遇した際、スローモーション・シーンを経験していました。
私は、片側2車線の交差点を直進していたところ、強引に右折を試みた車と、衝突を避けられないと思った瞬間に、すべてを神に委ねました。
すると、突然そのスローモーション・シーンは始まりました。
「おお、これが、映画やテレビで見るスローモーションか!面白い!しっかり体験しよう!」と思いました。
それと同時に、死の恐怖や不安は一切なく、意識の永遠性に対する強い信頼性と共に「私達は死にそうにない。大丈夫だ」と確信すると共に、それは、とても深遠な感覚の中で体験していることに気づかされました。
衝突と同時に、そのスローモーション・シーンは終わり、相手の車は目にも止まらないスピードで右に一回転スピンし、私の車の停止位置から10メートルくらい離れて止まりました。
私の車は、エアバッグが展開しなかった程度まで減速していたため、見た目にそれほど大きな損傷はなかったものの、相手の車は中央からきれいにくの字に曲がっていて、『全損』は疑う余地のないほど激しい損傷でした。
幸い、双方の搭乗者に怪我はありませんでした。お互いの身体の無事を確認した後、同乗していた妻に、そのことを話すと、彼女はショックを受けたようで、きょとんとしていて、しばらく固まったまま無言でした。
そのような彼女の仕草を見たのは、初めてのこと。彼女と出会った時から一度もないくらいのショックを受けていると気づき、ゆえに、「誰もが経験するものではないんだ」と思ったものです。
つい数年前にホーキンズ博士の著作を読み、それが意識レベル600以上の崇高な体験であることに気づくまで、すっかりそのような体験をしていたことを忘れていて、誰にも話しませんでした。
意識を成長させ、最終的に悟りを開くことが出来るのは人類のみです。
ゆえに、生物の中で人類として生まれるのは、とても稀なこと。
スピリチュアルに気づき、意識を成長させる過程の面白さを、人類のみの与えられたアストラルの楽しみであると、ホーキンズ博士は言います。
私が、スピリチュアル・ワークをはじめて、およそ30年経ちました。
しかしながら私は、ホーキンズ博士の邦訳『パワーか、フォースか』との出会いがなければ、意識の成長は、とても鈍いものだったでしょう。博士の11冊の本を読み、そこに書かれたスピリチュアル・ワークを進めることで明らかに大きな成長を、肌で感じているところです。