アートマンは、気づきによってのみ知られます。

 

「アートマンは、聖典の研究によっても、知性の鋭さによっても、学問を重ねることによっても、知ることとはできない。ただ、切にそれを望むものによって、それは知られる。まことに、そのような人に、アートマンはその真の姿を見せるのである。

 

アートマンは、弱い者、思慮を欠く者、瞑想を正しく行わない者によって知られることはない。しかし、正しく瞑想する者、思慮深い者、強い者によって、それは完全に知られる。

 

アートマンを知って、賢者たちは喜びに満たされる。思考器官が平静である者、情欲を離れた者は幸いなるかな。一切に偏在するブラフマンを至る処に認め、その存在の熟慮に深く没入して、彼らはその中に、すなわち一切のアートマンの中に入る。

 

ヴェーダーンタの真理を完全に確信して認識し、放棄のヨーガに従うことによって、純粋な行為を確実にわが物として、これら偉大な人々は、この生にありながら不死を得る。そして死にあたって肉体が崩れ去る時、彼らは解脱を得る」

(『ウパニシャッド』日本ヴェーダーンタ協会、2009年:ムンダカ・ウパニシャッド、96頁より)

 

スピリチュアルの気づきは、エゴ/小さな自己/自我の沈黙の瞬間に起きます。

 

そう、思考をやめ、こころの内側に集中する時、言い換えると『無』の心境の時にスピリチュアルの気づきはあります。

 

ただ、足を組み瞑想していても、エゴのおしゃべりはなくなりません。

 

おしゃべりを、いついかなる時も無視しましょう。

 

我が家の庭は、実に広く、今の時期、ツツジやサツキの剪定におわれます。

 

なんせ、100本以上のあるのですから・・・。

 

そんな剪定の時、私は『無』になります。

 

夕方、手入れをし続けている庭を眺めながら、ビールやお酒などを飲み始めますが、その時も『無』になります。

 

写真は、和室から望む庭です。昨日芝刈りして、とてもいい匂いで幸福感も最高潮でした!

 

 

その時の私は、エゴのおしゃべりに付き合いませんよ。

 

すると、毎日書きたいことが浮かんできます。

 

もちろん、そのすべてのスピリチュアルに関すること。

 

もう、それだけで、私は幸福感に満たされ、無意識に涙がこぼれる時もあり、我が家には至るところにハンドタオルが・・・。そんな時、思わず神に感謝を捧げています。

 

アートマンは、『無』の時、あなたにささやき始めます。あなたは、何も求めてはいけません。

 

あなたが、唯一こころにとどめおくべき言葉は『人類の最高善に捧げる』という一語のみ。あなたは、その他の雑念のすべてを、無視しましょう。

 

『人類の最高善に捧げる』意識をあなたが、常に求めるなら、アートマンは、あなたにささやき始めます。

 

思考は、あなたにスピリチュアルの真実を、決してもたらせません。あなたなら、お気づきでしょう。

 

『人類の最高善に捧げる』意識とは、『愛』の本質であること。

 

神の本質である『愛』を求めるあなたは、当然意識は、あなた自身を『人類の最高善に捧げる』に至るでしょう。

 

利他的に生きることの究極は、あなた自身を『人類の最高善に捧げる』こと。

 

もしもウクライナやロシア、ガザやイスラエルの人々、あるいはヒズボラのメンバーの全員が、自分の人生を『人類の最高善に捧げる』ならば、敵対することはなくなるはずです。

 

何故なら、『共栄共存』こそ最高善であり、憎しみを生むような生き方は最高善ではないから!憎しみや怒りにより人を殺すこと、自分の信仰のみ正しいといったような主張を通すというのは、自分自身を『人類の最高善に捧げる』ことと相容れない訳です。利己的と利他的の違いに『気づく』でしょうから・・・。