あなたは、人によって『善意』『悪意』は違うことをご存じでしょうか?

 

意識レベル200未満の方々にとって、「何を持つか」が最大の関心事。

 

ゆえに、持っているものを守ることが『善意』ですね。

 

しかし、愛のレベルにあるなら、それは『悪意』になります。

 

そう、しかし「何を持つか」『善意』の200未満に方々にとって財産を分かち合うというのは、それこそ『悪意』ある『馬鹿者のすること』と思うでしょう。

 

 

しかし、冷静に考えてみましょう。

 

神から与えられた人類の使命とは、「生きとし生けるあらゆるものとの共栄共存」です。

 

すなわち、自己中心的に、利己的に財産を独占することは、財産を作る能力のない方々を見捨てることになり、『共栄共存』の原則から逸脱してしまうでしょう。

 

私は、大学の時、アダム・スミスの『見えざる手』について、我が母校の慶大経済学部のある教授が「資本主義における市場経済は、人々の利己的な欲求に基づく需要と供給のバランスを自動調整される優れたシステムである」と述べていることに合点がゆきません。

 

その疑問が解消したのは、40歳を過ぎて、自分でスミスの『国富論』と『道徳感情論』を読んでからでしたね。

 

そこには、「資本主義の成否は、莫大な富を手に入れた資本家たちが、労働階級にどうやって富を再分配するかにかかっている。まさにここで求められるのが『見えざる手』であり、それは適切な富の分配としての適正雇用と適正賃金である」という趣旨のことが述べられていたのです!

 

更に私が感動したのは、2007年1月26日から2月6日まで日本経済新聞のコラム『やさしい経済 — 名著と現代』に連載された、慶大の先輩で大阪大学教授の堂目卓生による『アダム・スミス』の『見えざる手』の真意は、富の再分配こそ『Wealth of Nations/万民の富』となり、それは法の平等に匹敵するほど重要であるというスミスの主張に触れていたことでした。

 

これは、現在『アダム・スミス』(堂目卓生、中公新書、2008年)で読むことが出来ます。

 

明らかにこのアダム・スミスの『見えざる手』は、イエス・キリストの『山上の垂訓』における「施しは人目につかずに」を述べていたことと、その時、私は即座に気づきました。

 

この件以来、スピリチュアルにかかわることについて、わが国の大学教授の言葉をすべて疑ってかかることにしました。

 

それまでも私は、どうも、いろいろとおかしいことだらけと思っていたものですよ。

 

例えば、わが国を代表する憲法学者の主張する『自然法は重要ではない』という論述も、それは明らかに違うと私は気づいていました。

 

何故なら、世界史全集を2セット(河出出版社全24巻、および中央公論社全30巻)を読んだところ、どちらにもイギリスの名誉革命、アメリカの独立革命、およびフランス革命において、ジョン・ロックの『市民政府論(岩波文庫、1968年:Two Treatises of Government, 1690)』の王権神授説の否定と自然法の論理が、その思想的基盤になっていると明記されていたからです。

 

歴史学者と憲法学者のこの見解の違いは、どういうことでしょうか?

 

私は、憲法学者の見解は、明らかに日本国憲法の『信教の自由』を正当化するための歪曲であると、気づきました。

 

そもそも幼い頃から、私にとっての神は『自然神』のみでしたから、宗教宗派の分裂さえも奇異なことと受け止めていたからです。

 

それらすべて、ホーキンズ博士の著作を読むことで、私の主張が正解であったことは明らかでした。

 

かくして、その時々の意識レベルによって、その人の『善意』と『悪意』は逆転するのですよ。あなたも、また人類から、争いのなくならないのは、まさに『意識レベルの違う人々が、同時に生きているため』であることをご理解いただけるでしょう。

 

私は、自分の物質的、および知的財産を自分のことだけに使うことは、地獄行きを意味することに、幼い頃から気づいていたということ。博士の著作の全訳を、すべての日本人と共有したいというのも、これを私だけの財産にしたくないからです。