あなたは、道徳と精神の違いを、ご存じでしょうか?
邦訳の『わたし:真実と精神性』に“クリネックスの禅”というスピリチュアル・ワークの説明がありますね。
言うなれば、あらゆるものに神の意識は浸透しているため、使用前のクリネックス・ティッシュも、使用後のクリネックス・ティッシュも、驚くほど神聖に見えるようにするワークです。
これも、また気づきということ。
あなたが、すべてのものに神の意識が浸透していて、なんて素晴らしいのだと気づくとき、使用済みのクリネックス・ティッシュさえ愛おしく、しかも神聖に見えるようになるはず。
その時、あなたの意識レベルは、当然途方もないレベルに上昇しているでしょう。
その時、道徳は、行動の原則のように厳格に実践するものではなく、単に精神性の代用品のように見えると、ホーキンズ博士は述べていますよ。
道徳律、例えば『モーゼの十戒』を厳格に実践するというのは、あなたの左右大脳半球を同期化させるための手段であり、あなたがその同期化している時間帯が、長ければ長い程、あなたの精神的気づきの範囲も拡大してゆきます。
すると、精神のコンテクストは、『モーゼの十戒』をはるかに超越したものであると、気づくでしょう。
その先にあるのは、例えば『山上の垂訓』です。
『山上の垂訓』は無条件の愛のレベルへの到達のためのワークです。
私が、そのことに気づいたのは、『ア・コース・イン・ミラクルズ』を実践したからでした。
邦訳の『わたし:真実と精神性』には、「イエスは、無条件の愛を教え、ブッダは、悟りの開き方を教えた」とあったものの、それを読んだ時に私は、『山上の垂訓』こそ、そのワークの説教であるとは気づきませんでした。
『ア・コース・イン・ミラクルズ』を実践していると、「人に罪はなく、無智なのだ」と再三にわたって説かれているのですね。
どうしてこんなに何回も繰り返して『無罪性』を説くのか分かりませんでした。
ある日、私は「ああ、なるほど」と気づかされましたものです。
それは、キリスト教はアダムとイブの逸話にあるように、禁断の果実を食べてしまい、人類は罪を持ち続けていると。
いわゆる原罪です。
しかし、アダムとイブの逸話は70で計測され、罪をもっているというのは、30で計測される通り間違いです。
そう、人類は間違いに気づかず、罪の意識を持っているのであり、それは正しい知識のないため。
すなわち、道徳とは、間違いを犯さないためのものである一方、精神性は、無智を克服するものです。
この違いに、私は『ア・コース・イン・ミラクルズ』を実践し気づかされました!
罪と無智の違いこそ、道徳と精神性の違いです。
さて、大谷翔平の2試合連続のホームランは、どちらも相手野手は、ひとりも自分のポジションから動いていません。
これはとても珍しいこと。
昨日の一発は、時速191キロで、今シーズン最速を記録したとのこと。
現時点でMLB全体の打撃6部門にてトップだそう。
「大谷のキャリア177本塁打の内115本が2点差以内の場面で、74本が同点か勝ち越し弾」とジェフ・シュナイダーのXへの投稿が中日スポーツの電子版に紹介されていました!
彼は、長年パートナーだった水原一平の裏切りによる被害者であり、ドジャースへの移籍や結婚といった、大きな環境の変化、また『勝負弱い』といった心無い言葉にも動じず、今シーズンは過去6年の数字をはるかに凌駕しています。
彼は、まさに道徳と精神の違いを、直観的に理解していると私は判断しています。
彼は、精神性のメリットを利用するなら、間違いなく大きな成果を、これからも成し遂げ続けるでしょう。