写真は、我が家の南西の生垣の斜面に植えたボタンザクラ。

 

今年も見事に大きな花をつけました!

何かのきっかけで人は、スピリチュアルの重要性に気づくものです。

 

多くの場合、あまり良くないことが起きた時に気づくものです。

 

大災害や、悲劇的な出来事などですね。

 

ホーキンズ博士の場合には、不治の病により死の床についていた時でした。

 

私の場合は、父の死を契機にして、人生の方向をマテリアルから完全にスピリチュアルに舵を切りました。

 

そのような気づきを与えてくれる出来事を、ご紹介しましょう。

 

あなたは体外離脱と、臨死体験の違いをご存じでしょうか?

 

体外/幽体離脱は、いつでも起きる可能性があり、しかも自由に自分のゆきたい場所へゆける場合もあります。

 

一方で、臨死体験は、特定の場所という設定はなく、また自分からも望んで行ける場所もないと、ホーキンズ博士はいいます。

 

One enters a much grander and more splendid domain. An infinite, radiant love is always present.

その人は、はるかにもっと壮大な、しかももっと壮麗な領域へ入ります。無限で光を輝かせる愛は常にあります。

(『わたしの目:何も隠されているものはないことから見て』第十一章:

ゆくべき道に沿うより)

 

体外離脱の場合、「ああ、意識は身体とは別なんだ」程度の認識に終わることが多いとのこと。

 

一方で臨死体験は、人生を変容させてしまうと博士はいいます。

 

それは、臨死体験の時に途方もない高い意識レベルに達した結果だそうですね。

 

もう少し言うと、世俗的な興味を減少させ、死の恐怖は消え、スピリチュアルに没頭するために職を変え、また人間関係にも変化をもたらすといいます。

 

それぞれ525レベルで頻発するようになるとのこと。

 

すなわち、それより低いレベルでは、それらの体験を真実であると、聞いたとしても、そのように思えないものですね。

 

特に意識レベル200未満、そして200以上500未満においては、スピリチュアルの常識は、どちらかというと非常識です。

 

ゆえに誰もが、幼い頃からそのような教育を受けていない限り、冒頭で述べた通り大災害や、悲劇的な出来事は必要です。それは神の愛による配剤とホーキンズ博士は述べていますね。

 

まさに誰であれ、絶体絶命の状態でこそ、すべてを手放す状態になれ、あるいはこころの底から神に助力を求めるのであり、そこで初めてスピリチュアルの真実に触れ、それらを真実と思うのです。

 

私は、周囲から、まさにカモと見られ、「嘘も方便」で騙され続けてきた人生かと。

 

しかし、例えば、泥棒をするということは、物理面で、あるいはメンタル面で欠乏状態にあるため行うのです。

 

日本の多くの政治家達や、バイデンのように、まさに死ぬまで政治家にとどまりたいのは、同様にほぼ物理面で、あるいはメンタル面で欠乏状態にあるためです。

 

例えば、政治家達は、いつまでも注目を集めることこそ、自らの健康の秘訣であり、仮に職を辞すと共に寿命が尽きることを恐れているとも言えますよ。

 

ある産業医の医師は、「日本の上場企業の役員の多くが、職を辞すると寿命を迎えるという特徴がある」と、悲しげな表情で話されていたことを思い出します。

 

残念ながら、日本の企業戦士達は、政治家達と同様に、ほぼスピリチュアルに誰も目覚めていないことを、それは証明していますね。

 

ゆえに、泥棒が望む物以上のことを与えよというのは、真理であり、私のカモと見られるような行動にさえ、博士の論述を読んだことで受け入れ赦すことが出来ました。

 

もちろん、それでネガティブなカルマの解消を果たしたことにもなるのですから!