こんにちは
世界の 主要な 宗教では・・・
”断食(だんじき)” という 修行法が 実践されています。
それは 私たちが ”あたりまえ” として 考えている ”食物摂取” を・・・
”自分の意思” によって ”やめること” を 意味します。
そして それは ”生物” としての 私たちが・・・
ある意味 ”自殺行為” を 行うことに 似ているものです。
では なぜ そのような ”自殺行為” を・・・
宗教家たちは あえて やろうと するのか?
私たちは そこに ”宗教” が 目指している ”究極の目的” を 知ることになります。
”人間” や ”生物” というものは・・・
”食べもの” によって ”生きるためのエネルギー” を 獲得します。
つまり ”食べもの” が なくなってしまうと・・・
私たちは ”生きるためのエネルギー” が なくなるので・・・
やがて その後 ”死” を 迎えることに なるわけです。
ゆえに ”人間” や ”生物” とは・・・
”食べもの” のために 毎日 ”努力” を するのです。
そこでは ”食べもの” のために ”他の生物” を ”殺す” ことも 行われます。
それが ”生物としての正義” としても 考えるのであり・・・
そこでは 何も ”罪悪感” を 感じることも なくなります。
つまり 私たちが ”生きるため” には・・・
”野生動物” や ”家畜” などを ”殺して食べる” ことも・・・
それは ある意味 ”自分本位” の ”正義” なのであり・・・
人類は これまでも ずっと その ”正義” によって 生きてきました。
しかし それは この ”宇宙全体” から 見れば・・・
完全に ”誤った考え方” であると 考えられるのです。
では 宗教家たちは なぜ ”断食” という・・・
”人間” や ”生物” としての ”厳しい修行” を 行うのか?
それは ”食べもの” が ”摂取できない場合” に・・・
自分自身が ”どのような状態になるのか?” ということを・・・
自分の身をもって ”確認する” ことが 目的なのです。
私自身も 2012年に ”ブッダの教え” を 深く学んだことで・・・
それまでの 自分自身の ”食生活” に 対して・・・
”大きな疑問” を 抱くようになりました。
それは 自分自身が ”人間” や ”生物” で あること 自体に・・・
”大きな疑問” を 感じ始めることに なったからです。
実際に 私が それまでの 食生活から・・・
毎日 ”最低限の食事” を 目指すようになったのは・・・
自分自身が ”人間” であることに ”大きな無駄” を 覚えたからでした。
それにより 毎日の ”食生活” も ”無駄である” と 感じたのであり・・・
その ”無駄” を ”最小限” に するべきであると 私は 考えるようになり・・・
その結果 生きる上での ”最低限の食事” を 目指すように なったのです。
ブログでも その様子を ご紹介して 参りましたが・・・
”動物や魚” などの ”肉類” などは まったく 食べることが なくなりました。
それでも 自分の体は ”健康” そのものであり・・・
これまでの 食生活は ”完全な無駄” であったことが 理解できました。
つまり 私は 日々 ”余計な食物” のために ”大金” を 払い続けていたのです。
さらに 私は そのような ”無知の状態” を ”恥じる” ようにも なりました。
そんな中で 私は やがて ”食べもの” を ”完全に断つ” ことも 考え始めて・・・
実際に ”断食” を 試すことにも なりました。
そこで 自分自身に 起こったことは・・・・
”エネルギー不足” による ”思考力の低下” という 現象でした。
つまり 私自身 ”まともに考えられない” という 状況に 直面しました。
それは 私が 2012年からも このブログを 書き続けてきたことで 自覚できました。
つまり 社会に 発信しても 問題のない 文章を 書こうとしても・・・
”断食の状態” では 文章を 構成すること 自体が ほとんど できなくなり・・・
一応 書いてみても 後から 読み返すと それは ほとんど 支離滅裂であり・・・
それゆえに 私は まともな文章 すらも 書くことが 難しくなっていました。
”人間の脳” が 働くためには ”糖分” が 必要であると 云われていますが・・・
”断食” を して ”糖分” が 断たれてしまうと・・・
”正常な判断” や ”正常な思考” も 難しくなるようです。
そこで 私は ブログを 書く時には ”アメ” などを 口に含みつつ・・・
適度な ”糖分補給” を しながら ブログを 書いて参りました。
現在も 私は ”世俗の生活” を 続けていますが・・・
もしも そこで ”正常な判断” や ”正常な思考” が できなくなると・・・
”自分自身の生活” が ”成立しない” ばかりか・・・
”周囲” に 対しても ”多大な迷惑” を 掛けることにも なってしまいます。
それは 人間として 確実に ”避けるべき” であると 考えられます。
私は そこに ”人間” や ”生物” としての・・・
厳然たる ”限界” を 感じたのです。
つまり 自分は ”食べもの” が なくなってしまえば・・・
まったく ”役立たず” に なってしまうという ”現実” を 理解しました。
そこに 宗教としての ”断食の意義” を 悟ることになりました。
しかし それは 私たちが・・・
”人間” や ”生物” としての ”限界” なのであり・・・
この宇宙では そのような ”限界がない” というような・・・
まったくの ”別次元の存在” が いるのではないか?
・・・ということを その後 考え始めるるように なったのです。
そして それが 私たちが 目指すべき ”本当の目標” ではないか?
・・・ということも 自覚するように なってきました。
つまり 宗教における ”断食の修行” というのは・・・
私たちが ”人間” や ”生物” であることの ”限界” を 自覚させ・・・
私たちが この人生での ”本当の目標” を 自覚させるための・・・
”重要な修行方法” であると 理解できました。
そして 私たちに ”食べること” の ”本質的な意味” を 自覚させて・・・
その後の ”生き方” を ”変えさせる” ことを 狙っているようです。
また ”イスラム教” でも ”ラマダン(月)” と 呼ばれる ”断食の修行” が あります。
これは 一年の ある期間(約一か月間) において・・・
日の出から 日没まで 一切の飲食物を とってはならない という 修行法です。
その目的は ”飲食を断つ” ことによって ”空腹” や ”自己犠牲” を 経験し・・・
信者同士が ”飢えた人” や ”人間の平等” への・・・
人間的な ”共感” を 育むことを 目的にするものです。
また 共に ”苦しい体験” を 分かち合うことで ”信者同士の連帯感” を 強めて・・・
その結果 ”多くの寄付” や ”他者への施し” が 行われることを 目指しています。
そして 日没後は 信者たちは 一日分の食事を ”一気に食べる” のであり・・・
そこでは 制限なく 自由に 食事をすることが 許されています。
これは イスラム教での ”断食の意味” というのが・・・
信者同士の ”連帯を強める” ことが その ”主要な目的” であり・・・
”人間の食事” の ”本質的な意味” は あまり 重視されては いないようです。
つまり そこでは ”断食” による ”苦しみ” が テーマであり・・・
それを 信者同士が ”共感する” ことが 目的です。
そして ”苦しみ” が 去った後には ”食べる快楽” が 自由に 許されています。
ゆえに 私たち 日本人も ”断食” とは ”一時的な苦しみ” を 表すのであり・・・
それは ”苦しみ” を ”耐える修行” でしかない と 理解する人も 多いわけです。
しかし 私たちは ”ブッダの教え” が 説いているように・・・
人間としての ”根本的な快楽” としての・・・
”食べる快楽” そのものにも ”疑問を持つ” ことによって・・・
”人間” や ”生物” として ”あたりまえ” とされる・・・
”食事” という ”行為そのもの” にも ”疑問を持つ” ことが 重要なのです。
それによって 私たちの ”苦しみ” の ”根本的な原因” を 知ることになり・・・
そこから 私たちは いかに ”脱出するか?” ということを・・・
この人生で 本気になって 考えるように なるからです。
今後 ”地球環境” の ”重大な変化” というものが 予想されていますが・・・
私たちは そこで ”食糧危機” という ”致命的な状況” に 遭遇するかもしれません。
しかし 私たちは そんな状況でも 自分自身を 決して 見失わずに・・・
むしろ ”平穏の心境” を 維持しながら 決して ”動揺” することなく・・・
”正しい考え方” や ”正しい判断” を 行う 必要があります。
つまり そのような ”危機的な状況” に 対しても・・・
”事前” に 今から ”慣れておく” ためにも・・・
”断食の修行” が 役に立つことになると 考えられます。
つまり ”断食” によって ”食べもの” が ”なくなる場合” を 想定して・・・
そこで ”自分は どうなるのか?” を ”自覚” しておくことも 重要なのです。
その意味は ”ブッダの教え” というものが・・・
人間は ”最期” まで ”平穏を維持する” ことが 必要であると 説いているからです。
それが できなければ いつまでたっても ”人間以上の存在” には なれずに・・・
”人間” や ”生物” に ”生まれ変わる” ことが ”繰り返される” からです。
それでは ”人間としての苦しみ” からも 脱出できません。
私たちは ”断食” を 行うことで・・・
自分自身が ”食べもの” が 無くなってしまえば・・・
その後 ”能力は衰える” さらには ”死んでしまう” という・・・
”人間” とは きわめて ”不安定な存在” であることを ”自覚” すべきです。
そして そのような ”不安定な存在” で あることに ”満足” していないで・・・
この宇宙の中で ”安定した存在” に なることを 目指すべきのようです。
私たちは 今後も ”人間としての苦しみ” を 正面から 受け止めて・・・
そのような ”不幸な状況” から ”脱出” することを 目指すべきのようです。
皆様も 今後の 生活の中で ”断食” を 試すことによって・・・
ご自身の ”人間としての現実” を 十分に 理解されて・・・
この人生での ”本当の目標” を 見い出されてみては いかがでしょうか?
(※) 2013年に書きました ”断食” についての 内容である・・・
”仏教での 断食の意味” の 記事は こちらから お読み下さい