~原始仏典 スッタニパータ 第3章 第9節 ヴァーセッタ より~(内容要約)
639 この世の ”欲望” を 断ち切り
”出家” して ”遍歴(定住しないこと)” を しており
”欲望の生活” が ”尽きている人”
~かれを 私は ”バラモン” と 呼ぶ~ (以下この部分省略)
640 この世の ”愛執” を 断ち切り
”出家” して ”遍歴” しており
”愛執(愛欲への執着)の生活” が ”尽きている人”
641 ”人間の絆” を 捨てて
”天界の絆” をも 超えて
”すべての絆” から 離れた人
642 ”快楽(欲望の対象 を 享楽すること)” と
”不快(林の中に住む 遍歴生活を 不便に思うこと)” も 捨てて
”清らか” で ”涼しく” ”とらわれる” ことが なく
全世界に ”打ち勝った” 健(たけ)き人
643 生きとし 生ける者の ”死生(死ぬこと 生まれることの意味)” を
すべて 知っており
”執着” が なく ”幸せ” であり ”さとっている” 人
644 ”神々” も ”天の伎楽神(ガンダルヴァ)” も ”人間” も
その ”行方” を 知り得ない人
”煩悩の汚れ” を ”滅しつくした” 人
645 前(過去)にも 後(未来)にも 中間(現在)にも
”一物” も 所有せず すべて ”無一物” で
何ものも ”執着” しないで
”取り押さえる(所有の意味)” ことが ない人
646 牡牛のように 雄々しく 気高く
”(真の)英雄” ”大仙人” ”勝利者” ”欲望のない” 人
”沐浴したもの(修行者)” ”覚った人(ブッダ)”
647 ”前世の生涯” を 知り
また ”天上” と ”地獄” とを 見て
”生存” を ”滅しつくす” に 至った人
~かれを 私は ”バラモン(最高の地位の人)” と 呼ぶ~
こんにちは
前回の記事の 続きになりますが・・・
私たちが この世界で ”人間” として ”生きる意味” とは・・・
この ”宇宙” の中で ”苦しみのない存在” に なるために・・・
まず 自分自身を ”完成された人間” に することです。
そのための さまざまな ”努力” を することが・・・
この人生における ”正しい生き方” であると 考えられます。
仏教の開祖であった ブッダは・・・
せっかく 私たちが ”人間” として 生まれてきたのに・・・
”人間としての欲望” や ”人間としての執着” を ”すべて捨てよ” と 説きました。
それは それらが ”人間の苦しみの原因” であることを・・・
ブッダは 厳しい 修行生活の中で ”覚(さと)った” からです。
これが これまでの 世界の思想家や 哲学者が 言及しなかった 内容でした。
それは 思想家や 哲学者たちは 自分自身が ”人間” であることを・・・
ほとんど ”問題視” しなかったからです。
それゆえに そのほとんどの 思想や 学説が・・・
人生における ”表面的な問題” を とりあげていた だけに 過ぎず・・・
人生での ”根本的な問題” としての ”人間としての苦しみ” に 対しては・・・
ほとんど ”無力” であったと 考えられます。
それゆえに 私たちは ”ブッダの教え” を 生活の中で 活かしてゆくと・・・(※)
日常における さまざまな ”苦しみの問題” からも ”解放される” ことになり・・・
さらには ”死後の来世” においても・・・
”苦しみのない存在” として 宇宙の中で 存在することが 期待できるのです。
では まず 649 640の 詩経の内容は・・・
この世の ”欲望” ”愛執” を 断ち切り
”出家” して ”遍歴(定住しない)” しており
”欲望の生活” ”愛執の生活” が ”尽きている人”・・・という 内容でした。
これも 自分自身の さまざまな ”欲望” を ”断つ” ことが 必要であり・・・
あたりまえのように ”家” に ”定住する” ことも ”やめなさい” ということです。
私たちが 生きる 日本社会では・・・
”定住しない生活” とは ”ホームレス” に なることを 意味するわけであり・・・
それでは むしろ ”苦しい生活” に なってしまうと 考えるわけです。
しかし 実際問題として ”定住する” ことは ・・・
自分自身が ”ひとつの場所” に ”執着する” ことを 意味します。
そして それが 自分自身の ”執着心” の ”温床” と なるのであり・・・
そこから さまざまな ”執着心” が ”派生する” ことになります。
その結果 さまざまな ”苦しみの原因” が 発生するわけです。
その ”原理” を 理解できれば・・・
私たちが 実際に ”ホームレス” に ならなくても・・・
日常生活における さまざまな ”執着心” を ”なくしてゆく” ことを 心がければ・・・
自分自身の ”苦しみの出来事” も ”激減する” ことが 実現されます。
ブッダは まず そのことに ”気づきなさい” と 説いているのです。
そして 次の 641の 詩経での ”人間の絆” という言葉が 登場します。
その意味は 巻末の注釈 によれば・・・
”人間の絆”・・・ 身体 と 五官の ”欲楽の対象” と 表記されています。
また ”絆” とは・・・”断とうにも 断ち切れない 結びつき” などと 辞書にあります。
つまり 自分自身の ”断ちがたい欲望” に ”目を向けなさい” と 説いているのです。
さらには ”天界の絆” という言葉も 登場します。
そして その言葉の 注釈の内容が 大変に 興味深い内容です。
”天界の絆”・・・ 天の世界に住む 神々も ”束縛の絆” を 受けている。
”神々” といっても 人間よりも ”優れた存在” というだけで・・・
やはり ”変化” や ”苦悩” を 受ける ”生存者” である・・・ という 内容です。
つまり 私たちが 知っている さまざまな ”神々” という 存在も・・・
私たちと 同じように ”苦しむ存在” ということを 示しています。
それは ブッダが 生きていた 当時の ”バラモン(ヒンズー)の神々” であり・・・
ブッダは ”神々の存在” すらも ”超越した存在” を 理解していたのです。
それゆえに 私たちが 目指すべき ”本当の到達地” とは・・・
”神々の次元” すらも ”超越する” という・・・
完全なる ”別次元の存在” であることが 理解されてくるのです。
ブッダは そのことを 理解していたのであり・・・
だから 当初は その内容を 周囲の人間に 説くことを ”控えていた” のです。
そして 次の 644の詩経である・・・
”神々” も ”天の伎楽神(ガンダルヴァ)” も ”人間” も・・・
その ”行方” を 知り得ない人・・・というのが それを 示しており・・・
この宇宙の中で ”人間” や ”神々” という 概念を・・・
その人は ”完全に超越した次元” へ 行ってしまう・・・ ということなのです。
そこが 私たちが 本当に 目指すべき ”到達地(彼岸)” であると 考えられます。
そして 645 からの 詩経の内容である・・・
前(過去)にも 後(未来)にも 中間(現在)にも・・・
”一物” も 所有せず すべて ”無一物” で
何ものも ”執着” しないで ”取り押さえる(所有の意味)” ことが ない人・・・
”前世の生涯” を 知り また ”天上” と ”地獄” とを 見て(知っていて)・・・
”生存” を ”滅しつくす” に 至った人・・・という 内容は・・・
私たちが ”人間” として さまざまなものを ”所有する意味” なども・・・
この ”宇宙全体” から見れば ”無意味” なのであり・・・
それが 自分自身を ”人間” に ”縛りつける原因” ということも・・・
あなたたちは ”理解できるでしょう”・・・と ブッダは 説いているのです。
さらには 自分の ”現世” だけでなく・・・
”前世(生まれる前の世界)” も ”洞察” できるようになり・・・
”天上と地獄” が 意味する ”来世” も ”洞察” できるので・・・
それゆえに 自分自身が もう二度と ”苦しみの存在” としての・・・
”人間や生物” には ”生まれ変わりたくない” と ”決意する” ので・・・
”生存” を ”滅しつくす” に 至ることになる・・・ と 説かれているのです。
現在の 私たちは さまざまな ”知識” や ”学識” に 恵まれています。
それゆえに 自分自身が この世界での ”立ち位置” も ・・・
古代の人々に 比べれば 十分に 理解できる能力に 恵まれていると 言えるでしょう。
私たちは その ”恵まれた能力” に 感謝するとともに・・・
”ブッダの教え” を 余すことなく 理解することが 重要なのです。
次回も この続きの内容を 考えて参ります。
(※) 原始仏典での ”遍歴生活” の 内容である・・・
”ブッダの教え 正しい遍歴 とは?” の 記事は こちらから お読み下さい
そして ブッダの教えの 実践方法である・・・
”八正道(はっしょうどう)” の 内容は こちらから お読み下さい