~原始仏典スッタニパータ 第3章 第8節 矢より~
588 人々が いろいろと 考えてみても・・・
”結果” は ”意図” とは 異なったものとなる。
”壊れて(やぶれて)” ”消え去る” のは この通りである。
”世のなりゆくさま(真理)” を 見よ。
589 たとえ 人が ”百年” 生きようとも・・・
あるいは それ以上 生きようとも・・・
しまいには ”親族の人々” から 離れて・・・
”この世の生命” を ”捨てる” に 至る。
590 だから ”尊敬されるべき人の教え” を 聞いて・・・
人が 死んで 亡くなったのを 見ては・・・
”かれは もう 私の力の 及ばぬものなのだ” と さとって・・・
”嘆き” ”悲しみ” を 去れ。
591 たとえば 家に 火がついているのを 水で 消し止めるように・・・
そのように ”智慧” ある 聡明な賢者 立派な人は・・・
”悲しみ” が 起こったのを 速やかに ”滅ぼして” しまいなさい。
たとえば 風が 綿を ”吹き払う” ように。
592 己が(おのが・自分の)”悲嘆” と ”愛執” と ”憂い” を 除け。
己が ”楽しみ” を 求める人は・・・
己が ”煩悩(ぼんのう・欲望)の矢” を 抜くべし。
593 ”煩悩の矢” を 抜き去って こだわることなく・・・
”心の安らぎ” を 得たならば・・・
あらゆる ”悲しみ” を 超越して・・・
”悲しみなき者” と なり ”安らぎ” に 帰する。
こんにちは
スッタニパータ 第3章 第8節 では・・・
”矢” という タイトルが つけられています。
それは どういう意味か? というのが・・・
今回 取り上げる部分の内容で 明らかにされています。
それは ”煩悩の矢” と 表現されています。
つまり ”人間の欲望” によっての ”矢” なのです。
それは どういう意味なのか?
その意味は ”自分自身の欲望” というのは・・・
めぐりめぐって 自分自身に ”突き刺さる矢” と たとえられているのです。
つまり 私たち 人間は・・・
”煩悩(欲望)の矢” を ”放つ” ことによって・・・
その後 自分自身に ”突き刺さる” ことになります。
それで 私たちは この人生で ”苦しみ” を 受けることになるのです。
それが ”煩悩の矢” の ”真意” であると 考えられます。
では No.588の詩経から 考えてゆきますが・・・
~人々が いろいろと 考えてみても・・・
”結果” は ”意図” とは 異なったものとなる。~
これは 私たちが 人生において・・・
いろいろと ”あれがしたい これがしたい” などと ”意図” したところで・・・
”人間の一生” には ”限界” が あるわけで・・・
”結果的” には ”壊れて(やぶれて)消え去る” という ”死” が やって来ます。
それが ”世のなりゆくさま” であり この世界の ”真理” です。
私たちは それに 逆らうことは 全く できません。
そして たとえ 自分が ”百年間” 生きられたとして・・・
その間に どれだけ 他人との ”親密な関係” を 築いたとしても・・・
最終的には その人々(親族)とも ”離別する死” が 訪れます。
その時は 誰であっても ”孤独な死” を 体験するわけです。
それが ”人間の死” の ”厳しい現実” です。
そうして ”死者” は・・・
”死後の来世” へ ”出発” したのであり・・・
その事実は この世(現世)” に 残された 人間たちには・・・
”力の及ばぬもの” つまり ”どうしようもないこと” なのです。
そのことを ”尊敬されるべき人” といわれる・・・
”ブッダ” や ”諸宗教での聖者” は ”共通” して 説いているのです。
それゆえに 私たちが ”死者” に対して・・・
”嘆き” そして ”悲しみ” を 続けたとしても・・・
それは まったく ”無意味” です。
だから 死者に対する ”嘆き” や ”悲しみ” などは・・・
速やかに ”吹き払う” ”消し去る” ことが 必要なのです。
では 私たちが これまでの人生で・・・
なぜ ”愛する人の死” に対して ”悲嘆” を 続けてきたのか?
その理由が No.592の詩経から 明らかにされています。
それが ”愛執(あいしゅう)” と 呼ばれる・・・
私たちの ”愛欲” への ”執着心” です。
私たちが この人生で ”愛する人” だと ”考える” こと・・・
つまり ”愛する人” を ”作ってしまう” ことが・・・
私たちを 最終的に ”激しく苦しめる” ことに なっているわけです。
このブログでも かつて ”愛” について 考えましたが・・・
私たちは ”愛する対象” を・・・
自分自身に ”快楽” を ”与えてくれるもの” と 考えることがあります。
その ”代表的な感覚” が ”性的な快楽” であり・・・
それで 私たちは それを 限りなく ”欲しがる” ようになり・・・
その目的のために その人に ”強い執着” を することになります。
その結果 その人が 自分から ”離れてゆく” ことになれば・・・
そこで 人間は ”失いたくない” という意識が ”強くなる” わけです。
そして 現実に その人が ”離れる” ことになれば・・・
その人が ”生きていれば” どこまでも ”追いかける” ことになり・・・
場合によっては ”ストーカー殺人事件” などのような・・・
”悲劇的な事件” を 引き起こすことになります。
そして その人が ”死んでしまう” ことになれば・・・
”絶望的な悲しみ” に 遭遇して ”激しく苦しむ” ことになるのです。
これが ”愛執” が 招く ”悲劇的な結末” です。
私たちは この人生で・・・
”愛する人” と ”楽しみたい” という ”煩悩(欲望)” が あります。
これが ”愛欲” と 呼ばれるものです。
しかし それは 結果的には ”苦しみの原因” と なるものです。
そのことを いわゆる ”賢者” たちは ”知っている” のです。
だから もしも ”本当の意味” で・・・
この人生で ”楽しみ(安楽)” を 求めたいならば・・・
自分自身の ”煩悩(欲望)の矢” を ”抜きなさい”・・・
つまり 自分自身が ”苦しまない” ためには・・・
”自分の欲望” を ”前もって” ”消し去りなさい” と ブッダは 説いているのです。
それゆえに 私たちが この人生で・・・
”愛執(愛欲)の対象” を ”作らない” で 生きることが・・・
自分自身を ”悲嘆” させることがなく・・・
”心の安らいだ状態” を ”維持する” ための 重要な ポイントになります。
それが ”悲しみ” を ”超越する” という ”本当の意味” なのです。
ブッダは 人類に 何を 目指せ と 説いていたのか?
それは ”ニルヴァーナ” という ”永遠の安らぎの状態” でした。
そのためには 私たちが この人生で ”常に”・・・
”心が安らいだ状態” を ”維持し続ける” ことが 不可欠なのです。
そして それが もし できなければ・・・
私たちは ”永遠” に ”人間に生まれ変わる” ことになり・・・
”人間の苦しみ” も ”永遠に繰り返す” ことが 待っているのです。
そのために ブッダは ”人間” とは・・・
”サイの角” のように ”ひとり” で 生きてゆきなさい と・・・
原始仏典スッタニパータの ”巻頭” でも はっきりと 説いています。(※)
さらには キリスト教での 修行者たちや 他の宗教の 修行者たちも・・・
一生 ”結婚しない” で ”子供も作らない” ことを 選んでいるわけです。
その ”本当の理由” とは・・・
ブッダが ここで説いている内容と ”共通するもの” であると 考えられるのです。
以上の内容が ”第3章 第8節 矢” の 主要な内容でした。
私たちは これまで ”愛する人” を ”作る” こと・・・
さらには ”愛する人の死” を ”悲しむ” ことを・・・
まるで ”当然” のように 考えてきました。
しかし それは ”自分自身の欲望” によって ”起こしたこと” であり・・・
最終的に 私たちは ”自分を苦しめる原因” を 作っていたようです。
私たちが ”愛する人の死” による ”苦しみ” を 解決するには・・・
”愛する人” そのものを ”作らない” という・・・
つまり 自分自身の ”愛欲” そのものを ”捨てる” という・・・
まさに ”単純明快” な 解決法を ブッダは 示しています。
しかし それは 一見 ”単純” にも 思えますが・・・
実は その背後に 私たちの 人間としての ”複雑な欲望” が 存在しています。
つまり ”ひとつの欲望” は ”他の欲望” と ”つながっている” のです。
私たちは そこに ”注目” すべきであり・・・
そこから ”人間の死” について 改めて 考えるべきのようです。
皆様も ”煩悩の矢” という言葉の意味を 深く お考えになり・・・
ご自身の ”愛” そして ”愛欲” という 考え方についても・・・
ここで 改めて 熟慮されてみては いかがでしょうか?
(※) 原始仏典スッタニパータでの ”サイの角” の 内容である・・・
”ブッダの教え 犀の角(サイのつの)の意味” の 記事は こちらからどうぞ
キリスト教での ”愛” について 考えました・・・
”宗教が 愛を 奨励した理由” の 記事は こちらからどうぞ
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