~原始仏典 スッタニパータ 第3章 第8節 矢より~



574 この世における ”人々の命” は・・・

    ”定まったすがた” なく・・・

    どれだけ 生きられるか わからない。

    いたましく ”短く” て ”苦悩” を ともなっている。




575 ”生まれたもの” は ”死” を のがれる道がない。

    ”老い” に 達しては ”死ぬ” 。

    実に ”生ある者” の ”定め(宿命)” は この通りである。




576 ”熟した果実” は ”早く” 落ちる。

    それと同じく ”生まれた人々” は 死なねばならぬ。

    彼らには 常に ”死の怖れ” がある。




577 たとえば 陶工が作った ”土の器” が・・・ 

    しまいには すべて ”破壊されてしまう” ように・・・

    ”人々の命” も また その通りである。

    


578 ”若い人” も ”壮年の人” も ”愚者” も ”賢者” も・・・

    すべて ”死” に 屈服してしまう。

    ”すべての者” は 必ず ”死” に 至る。




579 かれらは ”死” に とらえられて ”あの世” に 去ってゆくが・・・

    父も その子を 救わず・・・

    親族も その親族を 救わない。





580 見よ。 見守っている 親族が・・・ 

    とめどなく ”悲嘆” に 暮れているのに・・・

    人は ”屠所(家畜などを屠殺する場所)” に 引かれる 牛のように・・・

    ひとりづつ 連れ去られる。     
 




こんにちは わんわん




最近の 日本では ”未曾有” の ”集中豪雨” によって・・・

 

愛すべき人々が ”死亡” または ”行方不明” となる 事態になっています。

 

しかし 今後の 地球環境では・・・

 

このような出来事は  ”普通の出来事” と なるかも 知れません。

 

つまり ”死別の悲劇” が ”頻繁” に 起こることに なるわけです。しょぼん

 

 

 

 

それは 先月の記事でも ご紹介したように・・・

 

地球は 現在 ”フォトン・ベルト” に 突入しているからです。(※)

 

つまり 現在 幸いにして ”被災していない者” であっても・・・

 

まさに ”明日は我が身” と なりうるわけです。ガーン

 




その出来事が 今後 自分の ”愛する人” に 起こってしまうとしたら・・・

その ”悲しみ” というものは・・・

その ”倍” さらに ”倍々” になって 自分自身を 襲うでしょう。

それが 私たちにとっての ”愛する人の死” に 対する・・・

あまりにも 重すぎる ”死の悲嘆” なのです。目 





仏教の開祖であった ゴータマ・ブッダ は・・・

そのような ”死の悲嘆” というものを・・・

どうしたら 解決できるか? ということを・・・

原始仏典 スッタニパータ でも 説いていました。

今回からの記事では その内容について 考えて参ります。メモ




この 第8節 ”矢” の 内容というのは ブッダが 生きていた当時・・・

”自分の子供” を 亡くしたという 在家信者が ”絶望” してしまい・・

”七日間” も 何も食べられなくなってしまった という状況を ブッダが 知り・・・ 

それを 何とかしてあげようとして 本人に語ったという 内容です。本 





それでは No,574の詩経から 考えて参りますと・・・


~この世における ”人々の命” は ”定まったすがた” なく・・・

どれだけ 生きられるか わからない。

いたましく ”短く” て ”苦悩” を ともなっている。~



私たちは ”現在の生活” や ”現世の人生” が・・・

あろうことか ”永久に続く” のではないか? というような・・・

完全なる ”錯覚” に 陥ることが よくあります。

それは ”現在の生活” に ”大きな満足感” を 得ている場合には・・・

その ”錯覚の度合い” は 比例的に ”大きくなる” 傾向にあります。ショック!アップ




しかし その ”錯覚” というものは・・・

私たちが この世界の ”死の現実” に 直面することによって・・・

根底から ”崩れ去る” ことに なります。

そこで 私たちは ”大きな悲しみ”・・・

あるいは ”大きな絶望” を 感じることになります。

そして その ”原因” は・・・

私たちが この世界の ”真理” を ”知らない” が ゆえに・・・

自分自身に 起こってしまう ”大きな苦しみ” なのです。しょぼん




つまり ブッダが この節で 説いている 内容というのは・・・

この世界の ”真理” としての・・・

”人間の死” の ”現実” を 明らかにしているのです。

それは ”人間の死” というものは・・・

この世界の ”すべての人間” が ”経験すること” であり・・・ 

決して ”自分だけの問題ではない” ということを 語っているのです。目 




そう考えれば ”最愛の人の死” であっても・・・ 

それは ”特別の出来事” ではなく・・・

”特別の苦しみ” でもない・・・ということが 理解されます。

ブッダは そのことを ”死” を ”悲嘆する者” に 説くことで・・・

”悲しみ” を ”軽減する” ことを 狙っていたようです。ドキドキ




”生まれた者” とは ”生物のすべて” であり・・・

それゆえに ”すべての生物” には 必ず ”死” が 訪れます。

それは ”遅かれ 早かれ” 誰にでも 訪れます。

それが 逃れようのない ”生物の宿命” です。

その ”真理” に 逆らうことは 私たちには 不可能なのです。ガーン




また・・・

~”熟した果実” は ”早く” 落ちる。~ とは・・・


これは たとえ ”若く(早く)” して 亡くなったとしても・・・

それは その人が ”早く完成した” からであり・・・

決して ”悲しむべきことではない” ことを 意味しています。リンゴキラキラ





さらに・・・

~かれらは ”死” に とらえられて ”あの世” に 去ってゆくが・・・

父も その子を 救わず 親族も その親族を 救わない。~ とは・・・



それは 仮に どれほど ”愛した人間” で あっても・・・

人間には ”愛する人の死” を ”救い得ない” という・・・

この世界の ”厳しい現実” が 説かれています。女の子男の子雷



 
そして・・・

~見よ。 見守っている 親族が とめどなく ”悲嘆” に 暮れているのに・・・

人は ”屠所(家畜などを屠殺する場所)” に 引かれる 牛のように・・・

ひとりづつ 連れ去られる。~ とは・・・



私たちが ”愛する人の死” を どれほど ”悲嘆” しても・・・

そのことは 何も 意味を持たずに・・・

人間は ひとり また ひとり と ”順番” に ”死” を 迎えてゆきます。

その ”現実” は 私たちには ”どうしようもない” わけであり・・・

私たちは それを ”受け入れるしかない” ということが 説かれているのです。得意げ





私たちが ”愛する人の死” に対して・・・

どのように ”対処” してゆけば よいのか?・・・

それは 人生における ”大きな問題” として 考えられます。

しかし そこで 私たちが ”大きな悲しみ” に 暮れていても・・・

それは ほとんど ”無意味” どころか・・・

自分自身を ”誤った道” に 進めることにも なるようです。目






次回の記事でも この続きの内容を 考えてゆきます。

そして 私たちの ”愛する人の死” という ”大きな問題” についての・・・

その ”根本的な解決法” を 今後の 数回の記事で 探求して参ります。星

 










(※) 今後の記事につながる 原始仏典の内容である・・・

    ”ブッダの教え 迷いの生存 とは?” の 記事は こちらから お読み下さい。星



    ”フォトン・ベルト” について ご紹介しました・・・

 

    ”2030年に 氷河期が 始まる”  の 記事は こちらから お読み下さい星