~原始仏典 スッタニパータ第2章 第6節 ”理法にかなった行い” より~


274 ”理法(真理)” に かなった行い・・・

    ”清らか” な 行い・・・

    これが ”最上の宝” であるという。

    たとえ ”在家” から出て ”家なき” に入り・・・

    ”出家の身” に なったとしても。




275 もしも 彼が ”荒々しい言葉” を 語り・・・
    
    他人を 苦しめ 悩ますことを 好み・・・

   ”獣(けもの)” の ごとくで あるならば・・・ 
 
    その人の生活は さらに ”悪いもの” になり 自分の 塵汚れを増す。




276 ”争論” を 楽しみ・・・

    ”迷妄 (道理が理解できないこと)” に おおわれている 修行僧は・・・

    目覚めた人(ブッダ)の 説きたもうた ”理法” を 説明されても 理解しない。




277 彼は ”無明(むみょう・無知)” に いざなわれて・・・

    修養を積んだ 他の人を ”苦しめ” ”悩まし”・・・

    ”煩悩(欲望)” が ”地獄” に 赴く道であることを 知らない。




278 実に このような修行僧は ”苦難の場所” に 陥り・・・

    母胎から 他の母胎へと 生まれ変わり・・・

    ”暗黒(地獄)” から ”暗黒” へと 赴く。

    ”死後” には ”苦しみ” を 受ける。




279 (そんな修行僧は) あたかも ”糞坑(ふんこう・こえだめ)” が・・・

    年を経ると 糞に 充満したようなものであろう。
    
    ”不潔な人” は 実に 清めることが 難しい。




280 修行僧らよ このような 出家修行僧を・・・
 
    実は ”家(世俗生活)” に 頼っている人・・・

    ”邪な欲望” が あり ”邪な思い” が あり・・・

    ”邪な行い” を なし ”悪い所” に いる人であると知れ。




281 汝らは すべて 一致協力して 彼(不潔な修行僧)を 斥けよ。

    ”籾殻(もみがら)” を 吹き払え。

    ”屑(クズ)” を 取り除け。




282 次いで 実は ”道の人(真の修行者)” ではないのに・・・ 

    ”道の人” であると 思いなしている ”籾殻” どもを 除き去れ。

    悪を欲し 悪い行いをなし 悪い所にいる 彼らを 吹き払って。




283 自らは ”清き者(清らかな人)” となり・・・

    互いに ”思いやり” を 持って・・・

    ”清らかな人々” とともに 住むようにせよ。

    そこで 聡明な者どもが ともに 仲よくして・・・

    ”苦悩” を ”終滅” せしめるであろう。



以上が 第2章 第6節 ”理法にかなった行い” の 内容でした。本





こんにちは わんわん 



前回の記事では 第2章 第5節の内容を 見てゆきました。

そこでは 私たちの ”好き・嫌い” について 考えさせられました。

それは 私たちが ”人間” として ”生きている意味” が・・・

”他者との関係” で ”大きく変わってしまう” ということが 示されています。ひらめき電球



今回の記事では その次の節である ”第6節” を 見てゆきますが・・・

この内容も 2015年に 先行して 考えておりました。

ここでも 私たちが ”他人との関係” というものを・・・

どのように とらえるべきか? ということが ブッダによって 示されています。

今回も その記事の内容を 再編集して ご紹介いたします。メモ



※ ※ ※


原始仏典においては ”清らか” という言葉が たびたび 登場します。

また 世界の 主要な宗教においても・・・

この ”清らか” という言葉が 重視されています。

それは キリスト教での ”清貧” という言葉も 有名ですね。クローバー




それにしても なぜ ”清らか” という言葉が・・・

宗教的にも 重視されてきたのでしょうか?

そこには どうやら ”重要な意味” が 隠されているようです。ひらめき電球




まず 冒頭に登場する ”理法にかなった行い” という 言葉の意味は・・・

“身(外面的な行為)” “口(言葉)” ”意(内面的な心)” における・・・

”善行” を 意味しており・・・

それは ”世俗の生活” における さまざまな ”善いこと” を 意味します。

そして それらを 行うことで・・・

人間は ”清らか” であると 考えられるようです。クローバー 

 


また ゴータマ・ブッダ が このような内容を 説いていた 理由は・・・

かつて “カピラ” という ”出家僧” が いましたが・・・

彼は ”優秀な知識人” でしたが ”傲慢(ごうまん)” であり・・・

”邪説” を 勝手に 唱え始め・・・他人を ”そしり始めた” ので・・・

その後 ”地獄に堕ちてしまった” からである・・・と 伝えられています。ドクロ




この世界では いわゆる “聖人” と 呼ばれる人々が 存在していますが・・・

宗教団体における “出家者” としての 修行者たちも そのように 考えられてきました。

しかし そのような “聖人” たちも ”日頃の行い” に よっては・・・

実は ”清らかな人” では 全く あり得ずに・・・

ブッダは ”不潔な人” として 評価していたのです。ガーン




つまり 自分自身が “聖人” であると 思っていても・・・

日常生活で ”荒々しい言葉” を ”話したり” ”書いたり”・・・

他人を ”苦しめ” ”悩まし”・・・

”争論” などの ”争いごと” を していては・・・

その人は 決して ”清らかな人” では 全くなく・・・

むしろ 人間としての “クズ” であるとも 説かれているわけです。ショック!




そして そのような “聖人まがいの人” というものは・・・

”死後の来世” においても・・・

”人間” や ”他の生物” に ”再び生まれ変わる” ことになり・・・

そこでも ”苦しみ” を ”繰り返す” ことに なるわけです。

それは まさに “暗黒の世界” を ”繰り返す” ことに なるのです。

そして それこそが まさに “地獄世界” なのかも 知れません。ドクロ




私たちは この人生で・・・

自分自身が ”清らかである” と 考えがちです。

それは 自分自身が “正しい” と ”肯定する” ことから 始まるようです。得意げ




しかし 前回の記事でも ご紹介しましたが・・・

仏教の開祖である ゴータマ・ブッダ は 自分自身のことも・・・

”不浄な人間” として ”否定的” に 考えていました。

つまり 人間とは もともとの ”不浄(不潔)なところ” から・・・

”清らかなところ” へ 移行するための・・・

日常生活における ”懸命な努力” が 必要のようです。走る人 




それゆえに 私たちが この人生で 必要なのは・・・

私たちの ”現在の状態” よりも・・・

さらに ”清らかな状態” を 実現すべきのようです。

そうでなければ 私たちは・・・

この人生で ”死” を 迎えたとしても・・・

”来世” では “地獄世界” が 待っていることに なるようです。ドクロ




では 私たちが ”清らかな人” に なるためには どうすればよいのか?

その方法が この ”理法にかなった行い” に 書いてあるわけです。

それは 毎日の 生活の中で・・・

決して ”荒々しい言葉” を ”話したり” ”書いたり” してはならず・・・

また 他人を ”苦しめ” たり ”悩まし” たり・・・

”争論” などの ”争いごと” も やっては ならないのです。メラメラ×




しかし 私たちの 日常において このようなことは なぜ 起こってきたのか?・・・

それは 自分自身の ”欲望” によって 起こっているわけです。

私たちには 生物的な ”本能” によって・・・

周囲の他人より ”優位に立ちたい” という ”欲望” が あります。アップ

それによって やがては 他人を “攻撃” するようにも なります。(※)パンチ!




現代の ”平和な日本社会” に おいても・・・

年々 深刻化している “いじめ問題” というのは・・・

これが ”根本的な原因” であるとも 考えられるのです。(※)目




その結果 私たちは 社会生活の中で・・・

”荒々しい言葉” を 吐くことで 他人を “攻撃” したり・・・

それで 他人を ”悩まし” たり ”苦しめ” たり してしまいます。

つまり 私たちは これまでの 人生において ”心ならず” も・・・

他人との ”優越性” を ”争う” ことを 繰り返してきたようです。てんびん座メラメラ




さらには 私たちは 自分自身が “聖人” である というような・・・

”実質” を 伴わない 自分勝手な “思い込み” によって・・・

他人よりも ”優位” に 立っている・・・などと 考えていれば・・・

やがて ”傲慢(ごうまん)” と 呼ばれる状態に なってしまいます。むっアップ

 


しかし そんな状態を これからも 続けていれば・・・

私たちは 確実に “地獄世界” へ 転落することになります。ダウン

つまり 私たちは ”No.276の詩経” からも 導かれますが・・・

”ブッダの教え” を “理解” することが できるのであれば・・・

“これまでの考え方” を ”変える” ことが 必要であり・・・

“これまでの生き方” を ”変える” ことが 必要なのです。目

 


そして 最後の No.283の一節にも あるように・・・

私たちは 他人を “攻撃” するのではなく・・・

お互いに “思いやる” ことが 重要です。ドキドキ

そうして 私たちは この世界での ”苦悩” を・・・

そこで ”終わらせる” ことが できるのです。

それが 私たちが 救われるための “最低条件” であると 考えられます。星




私たちは 自分自身のことを・・・

”清らかな人” であると 思いたいわけですが・・・

それは 実際には “思い込み” であることが 多いのかもしれません。ガーン




そして そんな “思い込み” によって・・・

私たちは “地獄世界” に 導かれているのであれば・・・

こんなに 恐ろしいことは ありません。しょぼん




私たちは 今後の 人生において “地獄世界” に 導かれないためにも・・・

“ブッダの教え” を 参考にしながら・・・

”本当の意味” での ”清らかな人” に なりたいですね。ニコニコ




※ ※ ※


”理法” というものは・・・

この世界の ”真理” を 意味します。

それは この ”宇宙全体” に ”共通するもの” です。

それゆえに この宇宙を ”支配しているもの” と 考えられます。

その ”理法” を ブッダは 人類に 説いていました。星




私たちのような ”世俗に生きる者” というのは・・・

日常生活での さまざまな ”人間関係” で ”忙殺” されてしまい・・・

”宇宙の真理” などには ”気が回らなくなる” というのが 現実です。

そこで 私たちは  ますます ”真理” から ”遠ざかる” ことになります。

その結果 私たちは ”生きるべき道” を ”踏み外す” ことになり・・・

自分自身を この宇宙の中での ”地獄世界” へ 導くことになります。ドクロ




それは ブッダが 理想としている ”出家” を 実現しても ”同じ” であり・・・

私たちが ”人間” で あり続ける以上 ”同じ” なのです。

つまり 自分自身が まず ”外形” を 重視して・・・

ブッダが 説いていたように ”出家” を 果たしたからといって・・・

それだけで ”聖人” に なれるわけでは ありません。ショック!




人間とは ”外面” ではなく ”内面” こそが 重要です。

そして 自分の ”内面” を ”清らかにする” ことが 必要です。

その方法を ブッダは ”戒め” を 込めて 弟子たちに 説いていたわけです。

このような 内容を書いている 私自身も・・・

この記事を ”自戒” を こめて 書いております。

それは 私自身も 時として ”理法” に ”かなっていない行動” を しており・・・

自分自身を ”地獄世界” へ 近づけていることに 気づくことがあるからです。ガーン





皆様も ”ブッダの教え” を ”通り一遍” で 読まれることなく・・・

ご自身の ”日常での行動” と ”照らし合わせながら” お読み下さい。

そして ご自身が ”本当の意味” において・・・

”聖人” に 近づいているのか? ということを お考えになり・・・

決して ”地獄世界” へ ”近づけない” ような 人生を お選びください。ニコニコ 



 




(※) 人間の ”優越感” の 危険性について 考えました・・・

   “快適な生活が 怒りを生む” の 記事は こちらからどうぞ星



   
    現代社会での “いじめ問題” を “優越感” によって 考えました・・・

    “いじめ を なくすために” の 記事は こちらです星





    ”傲慢(ごうまん)” の 危険性について 考えました・・・

    ”傲慢(ごうまん) が 意味するもの” の 記事は こちらです星




    ”真理” について 考えました・・・
 
    ”真理 とは 何か?” の 記事は こちらです星