こんにちはわんわん




私たちは 日常生活の中で・・・

”すべてのこと” に 対して・・・

限りなく ”満足する” ことを 目指しているようです。

しかし 人間とは “満足する” ことが・・・

”ずっと続く” ことは ないようですね。ガーン






それは 私たちが あることに “満足する” と・・・

”同じこと” では “満足できない” ことに なるからです。

それは どうして そうなるのか? といえば・・・

私たちの ”欲望” というものが・・・

次第に “拡大する” からです。ラブラブアップ





それゆえに 私たちは この人生において・・・

ほとんど “不満足の状態” に 陥っていることが 多く・・・

それで いつも ”イライラ” することが 多いわけであり・・・

その結果 “心の不安定” を 招くことになり・・・

”平穏の状態” からは ”遠ざかっている” ようです。ハートブレイク





それが 何を 意味するのか? といえば・・・

ブッダが目指していた ”ニルヴァーナ(涅槃寂静)” には・・・

私たちは 決して ”到達できない” のであり・・・

それにより 私たちは 今後も ずっと・・・

”人間” として ”苦しみ続ける” ことを 意味します。ガーン





その結果 私たちが この人生で ”死” を 迎えても・・・

”死後の来世” では ふたたび ”人間に生まれ変わる” ことになり・・・

そこでも ”人間” として ”苦しみ続ける” ことに なるわけです。しょぼん





ブッダの教えが 集約されている ”原始仏典 スッタニパータ” では・・・

”こよなき幸せ” の 内容において “満足” という言葉が 登場しています。

そして 翻訳者であった 中村元氏の 註釈においても・・・

それについて 重要な内容が 示されていました。

では まず ”原典の内容” を ここで 振り返ります。本





No.265 ”尊敬” と ”謙遜” を すること。    

       ”満足” と ”感謝” を すること。

       適当な時に ”教え(真理の教え)” を 聞くこと。

       これが ”こよなき幸せ”  である。





そして 中村氏の 註釈の内容を ご紹介しますと・・・




No.265 満足 

     ”満足” と 前に述べた ”誓願” を 立てることは 表裏の関係にある。

      (密接に 関連している・・・という意味です)

       人は 大きな ”こころざし(人生の目標)” を 立てると・・・

      くだらぬことで ”不満” を 訴えることは なくなってしまう。
 


・・・ということが 述べられていました。本

 
 


”誓願” では 私も 書きましたが・・・

”正しい誓願” つまり ”正しい目標” を 立てることが できると・・・

私たちは ”自分の内面” を 重視することが 始まります。

それによって ”周囲の出来事” も・・・

すべて ”自分の責任” であることが 理解され・・・

その結果 ”いかなる困難” が 自分自身に 直面しても・・・

それを ”困難” であるとも 思えなくなるのです。(※)ひらめき電球






つまり 自分に直面する ”すべてのこと” は・・・

自分自身の “人生の目標” に 到達するためには・・・

”自分で解決する” ことが ”必須である” と 考えるからです。

そこでは 自分に直面する ”すべてのこと” は・・・

”受動的” に ”客体的” に 考えるのではなく・・・

”能動的” に ”主体的” に 考えるように なるのです。

このような 考え方が 人間にとっての・・・

“幸福への道” であるとも 考えられます。目







また No.265の詩経の内容を ”反対側” から 考えた場合・・・

そこに書かれている ”尊敬” ”謙遜” ”満足” ”感謝” の・・・

それぞれの ”対義語” を 考えますと・・・メモ

 




そこには・・・

”軽蔑” ”不遜・傲慢” ”不満” ”怨嗟・恨み” というような言葉が 現れてきます。

つまり これらを 私たちが 日常生活の中で 持つことが・・・

“不幸の証拠”・・・ということも 理解されてくるのです。ガーンひらめき電球






その中でも ”傲慢(ごうまん)” という 言葉については・・・

ブッダだけでなく キリスト教での “聖母マリア” も・・・

あの “ファティマの予言” において ”警告” を 発していました。

それは 私たちが ”傲慢な生き方” を 続けていれば・・・

”来世” において “地獄へ落ちる” という 内容でした。(※)

そして それこそが ”人間” としての・・・

”最大の不幸” であるとも 考えられるわけです。ドクロ






私たちにとっての “満足” とは いったい 何なのか?・・・

それは おそらく 自分自身が・・・

”自分の目標” を 実現するために 生きる上での・・・

“最低限の条件” が “満足されている” ことで 感じるべきかもしれません。目







私自身 2012年から ”ブッダの教え” に 従って 生活をしておりますが・・・

私自身の ”人生の目標” というのが・・・

”人間” からの ”卒業” というものに なりました。

それゆえに 私自身の ”私生活の意味” というものも・・・

ブッダの教えを 実践するための “修業生活” というものに なったわけです。走る人







つまり 私自身の 日常での “満足” というものは・・・

毎日が ”あたりまえ” のように ”平穏” で あることで・・・

“修業生活” が ”何も障害がなく” 実践できること だけでも・・・

それだけで “満足” や ”感謝(知恩)” を するように なりました。

これが 私自身における・・・

”足るを知る” という 境地であるとも 考えています。(※)目








私たちは 自分自身の ”欲望の拡大” によって・・・ラブラブアップ

毎日の生活の中で ”不満” が 続くことが 多いわけですが・・・プンプンDASH!







私たちが 日常での ”あたりまえ” の ようなことに 対しても・・・

”満足” を 感じることが 大切であると 思われます。

そして “満足” を・・・

”いつも 感じている” 人間こそが・・・

“本当の幸福な人間” である・・・ということにも なるようですね。

そして それが ”本当に救われる人間” であるとも 考えられます。虹







それゆえに 人間の “満足” や ”幸福” というものは・・・

自分自身の “外部の環境” に よるものではなく・・・

すべて ”自分の内面” によって 決定されている・・・と 考えられます。目







皆様も この人生において・・・

”満足できない” と お考えになることが 多ければ・・・

それは “人生の目標” の 設定に・・・

”大きな誤り” が あることが 考えられます。ショック!







私たちは どうせ この世界で 生きるのならば・・・

“本当の幸福な人生” を 実現したいですね。虹







そして そのためには 私たちは・・・

ます ”正しい誓願” つまり ”正しい目標” を 設定することが 必要です。

そのことが ”原始仏典 スッタニパータ” での・・・

”こよなき幸せ” に 明確に 示されていると 考えられます。本









私たちは 今後の 人生において・・・

いつも “満足” を 感じることが できるような・・・

“本当の幸福” を 実現して 参りたいですね。ニコニコ















(※) 以前 ご紹介した ”誓願” についての 内容である・・・
   
    “ブッダの教え 誓願とは?” の記事は こちらです星

 


  
    また ”聖母マリアの予言” について 考えました・・・

    “傲慢(ごうまん) が 意味するもの” の記事は こちらからどうぞ星




  

    さらに ”足るを知る” について 考えました・・・
   
    ”足るを知る の 意味” の記事は こちらです星