こんにちは
プラトンの弟子には あの ”アリストテレス” がいました。
アリストテレスは プラトンが創設した ”アカデメイア” に 学び
哲学・論理学・自然科学・人文科学など さまざまな学問を 修得していました。
しかし 師匠の プラトンの思想に対して ”批判的な姿勢” を 取り続け
あの ”イデア論” も ”完膚なきまでに” 批判され
アリストテレスは ”経験と実践” を 重視する思想を 形成していました。
そして アリストテレスは
全ての人間が この世で 追求するのは ”幸福” であり
それを ”最高善” として ”よく生きること” であるとしました。
その内容は 富・地位・快楽 などに 恵まれることが 目的でなく
”人間として よく生きること” であると 定義しました。
それには ”人間固有のアレテー(徳)” に基づいて 生きることである として
2つの種類の ”徳” を 示しました。
1・知性的な徳・・・思慮・技術・知恵など (教育や学習によって 身につくもの)
2・倫理的な徳・・・勇気・寛容・正義・友愛など (正しい行為の ”習慣” により 身につくもの)
そして その中での ”勇気” を 例にとれば・・・
”勇気” が ”過度” になれば ”無謀” となり
”不足” すれば ”卑怯” となってしまいます。
それゆえ その真ん中の ”中庸” を得た ”徳” が 望ましく
それが ”よい習慣” であるとしました。
”中庸” とは ブッダの教えと 共通していますね。(笑)
その ”中庸”を 実現するのが
”知性的な徳” である ”思慮” である としました。
人間は ”実践” の中で ”習慣化” された
”知性的な徳” によって
人間として よく生きることができる と 説いたわけです。
しかし ”実践” が 最終的な目的でもなく
“真理の探究” とは ”認識” であると アリストテレスは 考えて
”理性の光” の 中で 真理を探究する生活が 必要であり
”観想的(テオリア)” な 生活こそが 真に よく生きる生活である・・・と 説いたのです。
”観想” とは 心を集中して 物事を観ることであり
ブッダの説いた ”正定” における ”瞑想” に 近いものでした。
ですが アリストテレスも プラトンと同様に
全ての徳のためには ”国家の正義” が 必要であると信じ
人間が 幸福になるには 個人が よく生きることだけでは 足らず
国家が ”正義” によって 支配されることが 重要な条件としたのです。
そのためには 国家が 個人の地位や 能力にふさわしい
1・名誉・利益・負担・義務 を 配分する正義 (配分的正義)
2・個人間の 不平等を 公平にして行く正義 (調整的正義)
の 2つがあると 主張しました。
アリストテレスの思想の ”各論” については それぞれについて
とても 有意義であると 思われますが・・・
しかし その ”核心部” では 前回の記事でも 書いた通りに
国家の ”正義” の 概念とは 極めて ”不確実” な 性質を持っており
これを 中心に据えた 思想というものは
やがて ”権力者たちの 思うがままの社会” に 簡単に 移行してしまう 危険性があるのです。
そして ”戦争” も 簡単に 肯定する社会に なってしまうわけです。
アリストテレスは 当時
”百科全書的 学者” と 異名をとるほどの 知識を備えた 大人物でしたが・・・
実は あの ”天動説” を 主張していたわけです。
つまり この世は ”地球を中心” にして 宇宙は動いている・・・という論理ですね。
これは 残念ながら ”真理” では ありませんでした。
”既存の知識” を いくら 積み上げても
この世の “真理” に 到達するとは限らない・・・
そんな ”教訓” を アリストテレスは 人類に 示していたのかもしれません。
古代ギリシャ思想では・・・
”神” よりも ”人間” を 中心に 考えるようになり・・・
”人間の知” を 最優先して
それを基に この世界全体を 考えようとしていました。
しかし ”3大哲学者たち” の 各思想は どこか ”危うい” ものでしたね。
つまり この世の ”真理” には
”人間の知” を 中心にするだけの 思考法では 到達し難い・・・と
古代ギリシャの ”3大哲学者たちの思想” によって 証明されてしまったようです。
次回では 3人の 偉大な哲学者たちが 生きていた
当時の ”古代ギリシャ” の 社会情勢について 考えてみたいと思います。
プラトンの弟子には あの ”アリストテレス” がいました。
アリストテレスは プラトンが創設した ”アカデメイア” に 学び
哲学・論理学・自然科学・人文科学など さまざまな学問を 修得していました。
しかし 師匠の プラトンの思想に対して ”批判的な姿勢” を 取り続け
あの ”イデア論” も ”完膚なきまでに” 批判され
アリストテレスは ”経験と実践” を 重視する思想を 形成していました。
そして アリストテレスは
全ての人間が この世で 追求するのは ”幸福” であり
それを ”最高善” として ”よく生きること” であるとしました。
その内容は 富・地位・快楽 などに 恵まれることが 目的でなく
”人間として よく生きること” であると 定義しました。
それには ”人間固有のアレテー(徳)” に基づいて 生きることである として
2つの種類の ”徳” を 示しました。
1・知性的な徳・・・思慮・技術・知恵など (教育や学習によって 身につくもの)
2・倫理的な徳・・・勇気・寛容・正義・友愛など (正しい行為の ”習慣” により 身につくもの)
そして その中での ”勇気” を 例にとれば・・・
”勇気” が ”過度” になれば ”無謀” となり
”不足” すれば ”卑怯” となってしまいます。
それゆえ その真ん中の ”中庸” を得た ”徳” が 望ましく
それが ”よい習慣” であるとしました。
”中庸” とは ブッダの教えと 共通していますね。(笑)
その ”中庸”を 実現するのが
”知性的な徳” である ”思慮” である としました。
人間は ”実践” の中で ”習慣化” された
”知性的な徳” によって
人間として よく生きることができる と 説いたわけです。
しかし ”実践” が 最終的な目的でもなく
“真理の探究” とは ”認識” であると アリストテレスは 考えて
”理性の光” の 中で 真理を探究する生活が 必要であり
”観想的(テオリア)” な 生活こそが 真に よく生きる生活である・・・と 説いたのです。
”観想” とは 心を集中して 物事を観ることであり
ブッダの説いた ”正定” における ”瞑想” に 近いものでした。
ですが アリストテレスも プラトンと同様に
全ての徳のためには ”国家の正義” が 必要であると信じ
人間が 幸福になるには 個人が よく生きることだけでは 足らず
国家が ”正義” によって 支配されることが 重要な条件としたのです。
そのためには 国家が 個人の地位や 能力にふさわしい
1・名誉・利益・負担・義務 を 配分する正義 (配分的正義)
2・個人間の 不平等を 公平にして行く正義 (調整的正義)
の 2つがあると 主張しました。
アリストテレスの思想の ”各論” については それぞれについて
とても 有意義であると 思われますが・・・
しかし その ”核心部” では 前回の記事でも 書いた通りに
国家の ”正義” の 概念とは 極めて ”不確実” な 性質を持っており
これを 中心に据えた 思想というものは
やがて ”権力者たちの 思うがままの社会” に 簡単に 移行してしまう 危険性があるのです。
そして ”戦争” も 簡単に 肯定する社会に なってしまうわけです。
アリストテレスは 当時
”百科全書的 学者” と 異名をとるほどの 知識を備えた 大人物でしたが・・・
実は あの ”天動説” を 主張していたわけです。
つまり この世は ”地球を中心” にして 宇宙は動いている・・・という論理ですね。
これは 残念ながら ”真理” では ありませんでした。
”既存の知識” を いくら 積み上げても
この世の “真理” に 到達するとは限らない・・・
そんな ”教訓” を アリストテレスは 人類に 示していたのかもしれません。
古代ギリシャ思想では・・・
”神” よりも ”人間” を 中心に 考えるようになり・・・
”人間の知” を 最優先して
それを基に この世界全体を 考えようとしていました。
しかし ”3大哲学者たち” の 各思想は どこか ”危うい” ものでしたね。
つまり この世の ”真理” には
”人間の知” を 中心にするだけの 思考法では 到達し難い・・・と
古代ギリシャの ”3大哲学者たちの思想” によって 証明されてしまったようです。
次回では 3人の 偉大な哲学者たちが 生きていた
当時の ”古代ギリシャ” の 社会情勢について 考えてみたいと思います。