こんにちは クマ 



ソクラテスは 当時の ”賢人” と呼ばれていた 政治家や 詩人などの人々を

次々にたずねて ”対話” をして “試問” を 行いました。

その結果 彼らの ”無知に対する 無自覚さ” と 

無知を自覚している ソクラテス自身の ”優越性” を 確信し

世のためにという 使命感を持って その活動に のめり込んでゆきましたが・・・




ソクラテスが ”賢者” であるという評判が 広まる一方で

”無知” を 指摘された人々からは 激しく憎まれ 数多くの敵を 作ることになりました。

更に 暇を持て余した 富裕市民の息子達が ソクラテスを 面白がって追い回し

その ”試問” を 傍聴し それを ”マネする” 者も出てきて

そんな青年達の ”試問” によって ”バカにされた” 人々もまた

その原因を作った ソクラテスへの ”憎悪” を 募らせることになりました。メラメラ




やがて ソクラテスに対する ”誹謗中傷” の 波は 勢いを増してゆき 波

さらに 当時は アテネとスパルタとの 戦争が起こった後で

アテネが敗北して 都市は混乱し 政治も腐敗し 民衆は不満でした。

敵国スパルタに亡命し アテネの敗北を招いた アルキビアデスや

その後の アテネでの悪名が高かった ”三十人政権” の指導者となったクリティアスが

ソクラテスに教えを施された ”弟子” であったことも

ソクラテスを非難する その理由となってしまいました。あせる





このため ソクラテスは

”国家が信じる神々とは 異なる神々を信じ 若者を堕落させた” などの罪状で

公開裁判に かけられることになったのです。




その結果 アテネの 500人の市民が 

ソクラテスの罪は ”死刑” に値すると 断じてしまいました。雷




ソクラテスは 自分自身での あの有名な ”弁明”(ソクラテスの弁明) を 行い

自説を曲げたり 自分の行為を 反省したりすることを 決してしませんでした。




その票決は 2回行われ 1回目は 比較的小差で ”有罪” でした。

しかし ”刑量” の申し出では ソクラテスは むしろ 自分に対して 

”国家に対して 私は 最上の奉仕をしているのだから 顕彰(名誉の食事)を与えよ・・・”

などという 主張をしてしまい 

そんな 常識に反する態度が 陪審員らの 大反感を招き 

大多数で ”死刑” が 可決されたのでした。ドクロ




しかし その後に ギリシャでの ”神事の忌みによる猶予” の 期間で

クリトン プラトンらの弟子たちによって ”逃亡・亡命” も 勧められ 走る人 

また ソクラテスに同情する者の多かった ”牢番” も

彼がいつでも逃げられるよう ”鉄格子の鍵を開けていた” のですが

ソクラテスはこれを 拒否しました。パー




当時は 死刑を命じられても 牢番にわずかな額を握らせるだけで ”脱獄可能” でしたが

ソクラテスの 自身の知への愛(フィロソフィア)と

”単に生きるのではなく 善く生きる” という 意志を貫き

票決に反して 亡命するという 不正をおこなうよりも

死を恐れずに ”刑死する” ことを 選んだわけでした。得意げ





紀元前399年 ソクラテスは 親しい人物と 最後の問答を交わして

”毒ニンジンの杯” を あおり 従容として 死に臨みました。

この顛末は その弟子である プラトンの著作 

『ソクラテスの弁明』 『クリトン』 『パイドン』 に 詳しく書かれています。本





しかし ソクラテスの 刑死の後 

アテネの人々は 不当な裁判によって あまりにも偉大な人を 殺してしまったと 

ソクラテスが 最後に ”予言” した通りに ”後悔” することになり・・・ショック!





民衆は ソクラテスを 告訴した人たちを 

裁判抜きで ”処刑” してしまったそうです。ドクロ 

なんとも やりきれない 結果でしたね。ガーン






ソクラテスは 人類の歴史上で

極めて重要な ”哲学者” だったわけですが

彼の行動への ”純粋な動機” が 世間の人々には ほとんど理解されずに 誤解された結果

“死刑” に 処されてしまったことは 大変 残念なことでしたね。しょぼん








次回では そんな ソクラテスの生涯 について

現代社会にも 通じると思われる

重要な点を 振り返ってみたいと思います。ニコニコ