東福寺の画僧で「画聖」とも称される吉山明兆(きつさんみんちょう・1352〜1431) の「五百羅漢図」の
修復完成を記念として開催
明兆は、鎌倉・室町水墨画家の中で、代表格の6人(黙庵・可翁・明兆・周文・雪舟)のうちの一人である。
現在の兵庫県洲本市で生まれ、地元で出家後、臨済宗安国寺(現兵庫県南あわじ市)に入り、東福寺永明門派大道一以の門下で画法を学び、大道一以に付き従い東福寺に入る。周囲からは、禅僧としての栄達を期待されたが、それを拒否し、生涯を東福寺専属の画僧としておくった。
明兆自画像模本 住吉広行筆
江戸時代
展覧会の構成は、
第1章 東福寺の創建と円爾
第2章 聖一派の形成と展開
第3章 伝説の絵仏師・明兆
第4章 禅宗文化と海外交流
(第4章の一部を除き撮影は禁止。写真はネット画像を借用)
東福寺は、摂政九条道家を開基とし、東大寺、興福寺から一字ずつをとり東福寺とした。
宋から帰国していた禅僧、円爾(えんに1202〜1280)・聖一国師を開山に迎え1243年に創建された。
円爾は、1235年宋に渡航し、中国五山第一位万寿寺の第34世、無凖師範(ぶじゅんしばん)を師として参禅、無準師範の法を継いだ。
印可の証として、“無準師範像”を与えられた。
無準師範は、書法に通じ雄渾な大字が伝えられている。
絵画にも通じ弟子の牧谿は日本水墨画に多大な影響を与えた
同じく弟子の無学祖元は来日し、建長寺、円覚寺の開山、高峰顕日、夢窓疎石と続く禅文化の礎となっている
東福寺は、日本最大級の伽藍を擁し、京雀から「東福寺の伽藍面(がらんずら)」と囃された。江戸時代には70か院、明治になっても25か院の塔頭があった。現在でも国宝の山門はじめ巨大な建造物で知られる。また、紅葉の名所、昭和の作庭家、重森三玲(しげもりみれい)の庭も有名。
会場には、通天橋の模擬コーナーも登場!!
第3章 伝説の絵仏師・明兆
重文 吉山明兆
達磨・蝦蟇鉄拐図 室町時代15世紀
大きさは明兆の円爾図と同じ
大画面、並べて掛けられていた
今回の明兆で一番面白かった、
衣裳の太い輪郭線、
顔毛髪、手足の細い線描、
松、岩の線…
雪舟の慧可断臂図、雪村の呂洞賓図、蕭白の蝦蟇鉄拐図も明兆になんらかの影響を受けているのだろう
重文 吉山明兆
白衣観音図 室町時代15世紀
(展示期間4/11〜5/7)
「五百羅漢図」は、南宋の林庭珪・周季常という絵師が12世紀後半に全100幅が制作され、82幅が大徳寺に伝来した(12幅はボストンとフリーア美術館所蔵、6幅は紛失)
1幅に5人の羅漢(最高位の僧)の僧院での儀礼や生活が描かれている
東福寺の「五百羅漢図」は、大徳寺伝来を原本として、明兆が1幅に10人の羅漢を描き50幅を制作
東福寺に45幅、根津美術館に2幅、3幅は復元、東福寺展で全50幅を展示
絹本着色 縦174cm横89.9cm
第4章 禅宗文化と海外交流
(一部撮影可能)
東福寺の宝物を見ると、
円爾と師無準師範の人脈が、
文化交流、日宋貿易にも
深く関わっていたことがわかる
東福寺を知ると、その後の日本文化に影響を与える大きな水脈の元がわかる
円爾の師無準師範の弟子、牧谿は日本水墨画の範となったし、無学祖元は鎌倉に建長寺、円覚寺を開いた、その門から夢窓疎石が生まれる
そして、円爾は明兆を育て、雪舟に影響を与える
円爾は、博多では“博多山笠”の発祥、静岡では“静岡茶”の生みの親と云われ慕われている
案外知られていない東福寺の
文化芸術面を知るよい展覧会でした
初日にも関わらず、ゆっくり鑑賞出来る人出でした
★★★★☆
無準師範像はぜひ観ておきたい
お腹も空いてきたので、上野で軽くランチ
黄金に輝く釈迦坐像を見たせいではないが、オムライスが食べたくなり、黒船亭へ