生涯に二人得がたき君故にわが恋心恐れ気もなし
中城博と別居したふみ子は、帯広の短歌会「辛夷短歌会」の主要メンバーだった大森卓と出会う。
大森卓はふみ子好みの美男子だったが、大森は重い結核を患っており、看護師の妻がいた。しかし、ふみ子は「生涯に二人得がたき君故にわが恋心恐れ気もなし」と詠む。
しばらくして、大森には妻の他に若い恋人がいて、大森が入院した病室で若い恋人とふみ子が鉢合わせになるという出来事があり、ふみ子は激怒し失恋する。
大森への想いを断ち、新たな恋を探す。ダンスをきっかけに知り合った大学生高橋豊と交際する。高橋豊との交際は、プラトニックのようだ。
胸のここはふれずあなたも帰りゆく自転車の輪はきらきらとして
1951年9月27日 大森卓が亡くなる
いくたりの胸に顕(た)ちゐし大森卓息ひきてたれの所有にもあらず
亡くなった、大森卓は誰のものでもない、私のものだと宣言しているようだ。
1951年10月2日、博と正式に離婚が成立する。末っ子の潔が、中城家に引き渡され、ふみ子は長男孝、長女雪子の2人の子どもと暮らすようになる。離婚後もふみ子は旧姓の野江に戻ることは無く中城姓で通した。ふみ子は、「現在の幸も不幸も結婚生活から発端してゐるのであるから、中城といふ姓に愛着を捨て切れない」と語っていたという。
1951年10月24日ふみ子は、家族に告げず、2人の子供を置いて東京に出奔する。東京で手に職をつけた上で、子供を呼んで暮らそうと考えたようだ。しかし、一カ月ほどで母親に連れ戻され帯広に帰る。
帯広に戻ったふみ子に新たな恋が芽生える。ダンスホールの助手で、7歳下の木野村秀之助である。

音高く夜空に花火うち開きわれは隈なく奪われてゐる
ふみ子と木野村英之介との関係は、すぐにスキャンダルとなった。
ふみ子の両親は、木野村との結婚を了承していたようだが、帯広の名家である木野村家では結婚を許さなかった。
銃口を擬(ぎ)されたるとき母は消え未練なひとりの女が立ちゐる
この頃の歌と思われる。銃口は男性器を連想させる。
ふみ子の2人の子供も木野村を嫌い、ふみ子自身も酒もタバコもやらない真面目な木野村に飽きていたようだ。二人は結ばれなかったが、木野村は病床のふみ子に死ぬまで寄り添った。「音高く夜空に花火うち開きわれは隈なく奪われてゐる」をクライマックスに渡辺淳一は、小説「冬の花火」(1972―73)を制作した。

冬の皺よせゐる海よ今少し生きて己の無惨を見むか
『1953年12月、小樽の妹夫婦宅に滞在しながら札幌医科大学付属病院に通院する列車車中から冬の石狩湾を見て、ふみ子は迫りくる死を前にして、残された己の人生、そして死を直視していく覚悟を詠んだ。』
ひざまづく今の苦痛よキリストの腰覆ふは僅かな白き粗布のみ
意味を問われると、ふみ子は「キリストも男でしょう」と答えた。
救ひなき裸木と雪のここにして乳房喪失の我が声とほる
ふみ子は、「乳房喪失」という題名に強く反対したが、中井は譲らなかった。
短歌研究4月号に乳房喪失42首が掲載される。巻頭を飾ったのは、
唇を捺されて乳房熱かりき癌は嘲ふがにひそかに成さる
乳房喪失が発表されると、短歌界は大騒ぎになった。評論家はこぞって辛辣な評価をくだし、戦後派と呼ばれる、戦後歌壇にデビューした歌人たちがふみ子の作品を厳しく批判した。しかし、その一方で歌壇の若手を中心に熱狂的とも言える支持の声が沸き上がり、短歌界を分断する事件になった。
中井英夫は「第二の戦後派は必ず出る、旧勢力に対して本当の反逆ができる若い世代がもうすぐ生まれてくるはずだと語っていた当人(戦後派)が、それらしいものが頭をもたげるが早いか、もう土足で踏みにじろうとする態度には呆れて物がいえない」と、既存歌壇に対する戦闘意欲を高めていた。
歌集出版の序文を依頼されていた川端康成は、中城ふみ子の「花の原型」を角川書店の「短歌」に掲載するよう推薦していた。
中井はあえてライバル誌への掲載をふみ子に勧め、短歌研究6月号にも追加掲載し、中城ふみ子ブームを作ろうと考えた。そして、歌集を短歌研究から出版する事を約束した。
『中井は当初の予定通り、ふみ子の歌30首を「優しき遺書」と題し、「短歌研究」6月号に掲載する。そして「短歌」6月号には、川端康成の推薦文と選歌を担当した宮柊二の感想付きの「花の原型」51首が掲載された。〜 歌壇は大いに盛り上がることになり、結果として全国各地の短歌結社はほとんど全てがふみ子について取り上げるといった事態となった。』
『「短歌」6月号での「花の原型」と「短歌研究」6月号の「優しき遺書」の発表以降、歌壇の風向きが変わってきた。ふみ子の実力が確かなものであるとの認識が次第に浸透し始めてきたのである。この頃になると短歌愛好家である大衆の支持が歌壇の批判を圧倒するようになっていた。短歌結社の中には、若手のほとんどがふみ子の短歌を支持する姿を見て、主催者が激怒するという事態も起きていた。一躍歌壇の寵児となっていた。』
そんな中、ふみ子の病状は悪化していた
葉ざくらの記憶かなしむうつ伏せの我の背中はまだ無瑕なり
不眠症で睡眠薬を服用するようになり、川端康成の「眠れる美女」の
不眠のわれに夜が用意しくるもの蟇、黒犬、水死人のたぐひ
が詠まれた。
ふみ子の処女歌集「乳房喪失」は、1954年7月1日から発売開始となった。
時事新報社の学芸担当記者の若月彰(当時23歳)は、「乳房喪失」に感激し、上司に札幌取材の許可を願ったが、受け入れられず、休暇扱いの自費取材となった。若月は、中井英夫とも懇意で、ふみ子が重度の癌で、余命わずかな事を聞いていた。
若月は北海道新聞の山名とふみ子に面会する。ふみ子は中井からの速達で若月の訪問を事前に知っていた。若月の来訪を知ったふみ子は口紅を塗り、軽くお化粧をして病室に二人を迎え入れた。初対面時、ふみ子と若月は軽い挨拶を交わした程度であったという。
山名と若月の記事は、北海道新聞、時事新報に発表され大評判となる。
何度目かの面会で、山名が帰り、若月だけが病室に残った。
若月はふみ子のベッドの隣にゴザを引いて寝た。
『7月20日、ふみ子は結果として最後となる手紙を中井英夫に送っている。最後の手紙の中でふみ子は、歌のことを含め、他の事はもう自分にとって必要ないが、とにかく中井に会いたいと記している。
その晩、若月はふみ子の額にキスをする。その情景を詠んだ歌が、
この夜額に紋章のごとかがやきて瞬時に消えし口づけのあと
である。
若月はふみ子が自分に性的な関心を持ち始めていることを感じ出していた。それでもなかなか詠んでいる歌を見せようとはしない。
7月22日夜、ふみ子はベット下の若月の眠るゴザに潜り込み、抱くように懇願した。重病人のふみ子を抱けばそのまま死んでしまいかねない。躊躇する若月にもう死んでも良いとふみ子は答えた。隣のベットで眠る老婆を気にかけながら、若月はふみ子のことを抱いた。結局、ふみ子の詠んでいた歌は翌23日の深夜、ふみ子が寝ている隙に若月が自らのノートに書き写した。』
7月25日、若月が帰京する。死を前にしたふみ子の最後の願いは、短歌の恩人で「私の足長おじさん」、『中井英夫に会ってから死にたい』であった。若月も中井に札幌行きを促した。7月29日、中井英夫が始めての飛行機に乗り、札幌に到着する。
『待ちに待った中井の来訪を聞いたふみ子は一言「いやっ!」と叫んだ。死の床にありながら、ふみ子は中井を迎えるために母に頼んでお化粧をしたのである。お化粧を済ませた後、ふみ子は中井を病室に招き入れた。』
中井もふみ子のベッドの横にゴザを引き寝泊まりし、札幌には8月1日まで留まった。
『札幌から帰京した8月2日夜に書いたふみ子宛の手紙は、これから毎日手紙を書くと記した後に、「小さな花嫁さんに」と、結ばれていた。8月3日に亡くなったふみ子は、その中井からの手紙を読むことはなかった。』



