短編小説  『邂逅』


出雲の実家に転居して二か月あまり、
仕事への道すがら、何となく気になる場所がある。
そこは、もうかれこれ、四十年ばかり足も遠のいている場所ではあるが、
心の片隅でいつか再訪したいと念じている場所でもある。

そこは、神門寺(かんどじ)という法然開祖の浄土宗の古刹なのであるが、
この寺の近くにかつて同人誌仲間だった詩を書く女性の家があり、
時折、家に上がり込み、互いの作品を評したり、語り合うなど、
文学談義をして過ごすことが度々あった。
そして帰路、二人して近くにあるこの寺にお参りしてから、
別れると言うのが、会ったときの習慣のようになっていた。

ある日のこと、本堂へと向かう長い真っ直ぐな道をゆっくりと歩いていると、
俯きながら、彼女がぽつりと言った。
「近所の人が、あなたとのことをのっぴきならぬ関係じゃないかって噂してるのよ。
あらぬことを勝手に想像しては茶飲み話のネタにするのよね」
「そうだったのか、道理で最近少し様子がおかしいと思ったよ」
「どうしたらいい?」
「そうだなあ、じゃあ、こうしよう。もう家に行くのはやめにして、
電話するので、この寺で落ち会おう。そして、そのまま、この寺で別れよう。
寺へお参りするぶんには、怪しむ人もいないだろう。家にはもう行かない方がいい」
「そうよね、わかったわ。じゃあそうする」

そうして、何度かこの寺で逢瀬を重ねたある日のこと。
その日は、暮れなずむ秋の日の夕刻だった。
本堂を辞し、長い参道をゆっくりと歩を進めていた。
陽が山影にかかれば、落ちるのは目に見えるほど速い。
あたりはみるみる暗く沈んで行く。
迫り来る宵闇が私たちの姿を風景の中から消しはじめていた。
その暗闇に乗じて、私は右手で隣を歩く彼女の左手をさりげなく握った。
すると、彼女の手が私の手を、その指先で逆に強く握り返した。
私には無言の諾であり、未来を約束するようにすら思えた心ときめく瞬間であり、
躰の芯まで熱くした瞬間だった。

だが、そんな私の思いとは裏腹に、それからしばらくして、私は彼女に縁談が持ち上がり、
婚姻がまとまったらしいことを、人づてに知った。
私は耳を疑い、しばし呆然としていたのであるが、ふと、あることに思い当たった。
彼女が握り返した左手は、私の都合のいい想像とは裏腹に、
今までありがとうの意を添えた別れ言葉を意味していたのではなかったか、と。
思えば、彼女は私を傷つけまいとして、ていのよい嘘のうわさ話で私を家から遠ざけ、
寺で逢おうと言う私の提案を受け入れもして、
少しずつ、別れの階段を下りて行こうとしていたのかもしれない。
その後は、彼女からもう連絡はなかったし、
私の方も、なぜか電話することすら憚られ連絡を絶った。

そのまま、あれから四十年ばかりの歳月が無為に過ぎている。
転居してまもなく、私は市役所へ住所移転の手続きに行った。
新たな住民票を取り、外へ出ようとしたのだが、
立派に建てかえられた新庁舎の通路には、大きな絵や書が掛けられていた。
無論市内の有力作家たちの作品を展示したものである。
興趣が湧いた私は、一点ずつ作品と作者に目を運びながら観て回った。
そして、縦三メートルくらいはあるだろうか、
草書で大書された大きな額の前で、はたと立ち止まった。
書の横には、忘れもしないその名が刻されていたのである。
独特な筆名だったので、別人であることは、まずあり得ない。
書も嗜んでいることは、知っていたが、ここまで極めたとは驚きである。

東の 野に炎の 立つ見えて かへり見すれば 月傾きぬ

(ひむかしの のにかぎろいの たつみえて かへりみすれば つきかたぶきぬ)

島根県の益田市が終焉の地とされる有力説もある、かの柿本人麻呂の歌である。
どういうわけで、この歌を認めたものか知る由もないが、
妙に最後となったあの寺でのふたりの情景と重なり合ってしまう。

なぜか居てもも立ってもいられず、その足で神門寺へと向かった。
県道から右折する寺への道筋は、間違えようはないし、
大きな伽藍で、遠くからでも、すぐそれとわかるはずなのだが、
どこまで行っても、それらしき古刹は見当たらない。
当時寺の周りは見渡す限り田園で、民家はところどころ疎らに点在するだけだったが、
今その面影はまったくない。
場所を間違えたかと思うほど、道路は新しく整備され、モダンな民家が軒を連ねていた。
野中の一軒家風だった彼女の家も、どのあたりになるのか、さっぱり見当もつかない。
しかたなく誰かに道を訊ねようと、同じ道を行ったり来たりを繰り返しているうちに、
すっかり今風になったこの場所には、やや不似合いな古風な家があり、
その横に小さな畑があり、そこで野良仕事をする婦人の姿があった。
そうだ、この人に道を訊ねようと、私は慌てて車を停めてハザードを点灯させた。
道幅が狭く、長居はできないので、その婦人めがけて走り寄った。
「すみません、神門寺へは、どう行けばいいんですか?
四十年ばかり前には、よく来ていたんですが、あたりがすっかり変わっていて、
迷ってしまったものでして・・・」
すると婦人は、いくぶん怪訝な眼差しで私を見つめながら、通りの方を指さし、
「すぐその先に郵便ポストが見えますでしょ、そこの角を折れて少し行くと、
駐車場の案内看板が出てますから、すぐにわかりますわよ」
そう言うと、婦人は、私の顔をさらにしげしげと見つめた。
「ありがとうございます」と言って、車に戻ろうと踵を返そうとすると、
婦人が、突然私を呼び止め、
「もしかすると、村上さん?」と言った。
「ええ・・・」とだけは答えた私だったが、
野良で薄汚れた作業着に身を包んだその婦人に心当たりはない。
私は怪訝そうに婦人を見つめたままだ。
すると「私が誰だかわかりませんか?」
そう言って、かぶっていた帽子を取り、日に焼けた化粧気もないその顔で、
私を瞬きもせずじっと見つめつづけた。
言われてみれば、その目元、その眼差し・・・。
とたんに私は、はっとして身がすくんだ。
歳月が姿かたちを変えているとは言え、そこには紛れもなく、その人が立っていたのだ。
私を見つめる時の、その目元、その眼差しだけは、あの日のままだ。
何という時のいたずら、そして何という思いがけない邂逅であることか・・・。
「もしかして、○○さん?」
すると、頷いた婦人の頬が俄にゆるんだ。
「奇遇ですわね、これは夢なのかしら?」
「ほんとに、そうですね。
こんなところで、まさかあなたに出くわそうとは夢にも思いませんでしたよ」
それから、彼女は少しばつの悪そうな顔を私に向けて言った。
「あのとき、きちんとお話しなければいけなかったのですが、言えなくて・・・」
「やめましょう、それはぼくも同じですから。臆病だったのですよ、ふたりとも」
「あのね、村上さん、わたし今はもうこには住んでいないんです。
今日は、昔からお知り合いのこの家の方に畑を借りて野菜作らせてもらっていて、
この時間こうしてここにいるのもほんの偶然、たまたまのことで、
なおのこと、びっくりですわ」
今度は満面に笑みをこぼしながら、彼女が言った。
「まさか、こんな形であなたにお逢いできようとはね・・・。
ぼくの方も、今目の前で起きてることが現実とは、どうしても信じられませんよ。
そもそも、今日ここへぼくが来ようと思い立ったのは、
住民票を松江から出雲へ移すために市役所へ行って、
そこのロビーであなたの書を見たからなんですよ」
すると今度は彼女の目が驚きをもって私を見返した。
「まあ、うれしい。あれをあなたに、ご覧になっていただけたなんて・・・」
「流麗な筆遣いで感服しましたよ。
それに柿本人麻呂のあの歌がとてね意味深く感じられましてね」
「そんなふうにおっしゃらないでください。お恥ずかしいかぎりです」
彼女は目を伏せた。そしてそれ以上は語ろうとはしなかった。
「これから、お寺へお参りしますが、よろしかったらご一緒しませんか」
私は彼女を誘った。
「こんな格好で、あなたといっしょには歩けませんわ」
「そんなこと言ってはおれませんよ。今逢えたことは、とても不思議な縁。
今を逃したらもう二度とやって来てはくれない千載一遇の縁ですよ、これは」
「わかりましたわ。じゃあ、ちょっとここから離れててください」
そう言うと、彼女は服に付いた土埃を手際よくパッパッと払い落とし、
帽子を取り、髪を手で梳かしてから、
「顔は直しようがないですわね」と言って、けらけらと笑った。
その仕草は、老いてもなお在りし日の可愛さを持していて、愛おしくさえ思えた。

見覚えのある長い参道をゆっくりと歩いて本道へ向かった。
その昔、土道だった参道は、
きれいに舗装されていて当時の素朴な風情はもうなかった。
それでも山門をくぐると、そこはまだ昔のままの姿を留めていて懐かしかった。

歩きながら、私は考える。
これは復縁ではない。
時が思いを洗い流してくれたればこそ、
今この時しかない、尊い縁と言うものもあるはずだ。
今、裏庭には木漏れ日が射し込み、苔むす地面に影絵のような紋様を作る。
首からそのまま、ぽとりと落ちた椿の花は、
地に落ちてなお花咲かせては、その矜持を誇る。
日陰にひっそり咲いていた石蕗(つわぶき)は、
枯れ果ててなお、その花の面影をそのまま地上に宿し、ただ黙している。
裏庭のその寂れた佇まいほどに、
ふたりのあれからを、あれこれと語り合うほどには、
時間もないし、あまり意味もない。
意味があるとすれば、この縁をこれからの、
なにがしかの力に変えることだけなのかもしれない。
彼女とは、あの日のように、何ほどもない世間話と文学談義に終始した。

どれほどの時間が過ぎたろうか。
やはりあの日のように、陽が傾き、帰り道の参道は、
暮れなずむ、ぼんやりとした薄茜色に染まりはじめていた。
そして、私は、勇を鼓して、あの日のようにまた彼女の手を取った。
すると、彼女の温かな手がまたあの日のように、
その指先にまで力を込めて私の手を握り返してきた。
それは、まるで、あの日の再現のようではあったが、
あの日起きた私たちの大いなる誤解とは違って、
今日この日だけに起きた奇跡でもあるかのように、
そしてそれはまた、ほんのささやかな出来事ではあったにしても、
確かな真実と受け止めてもよいことのように思われた。
すべては明日のために。

出逢った家まで彼女を送り返し、「じゃあ」とだけ言って別れた。
薄闇の中、動き出した車のバックミラーに、
いつまでも手を振りつづける彼女の姿が、
今にも落ちなんとする西日を浴びてやけに明るく映っていた。(了)

(註)
作中「こんにちは」「こんにちわ」など会話の末尾に使う、
「は」と「わ」の使い分けについては、
正しいとされる「は」ではなく、発音通りの「わ」表記としています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ローマの休日 (1953) | It's Now Or Never (1960, エルヴィス・プレスリ)

 

 

Janis Ian/Love Is Blind (1999)

 

 

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『さよならだんだんまた明日』をリリースされました。
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「だんだん」は、出雲地方独特の方言で、ありがとうの意です。

 

 

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