▪️所在地:兵庫県西宮市高松町14

▪️完工:昭和12年(1937年)5月5日

▪️廃止:平成12年(2002年)12月31日

▪️収容人員: 55,000人(内野37,000人・外野18,000人)←完工時

▪️中堅:118m  両翼:101m(ラッキーフェンス設置時:91m)

▪️観戦試合:1989.6.23vsライオンズほか17試合


西宮球場は、阪急ブレーブス→オリックスブレーブスの本拠地でした。


昭和10年(1935年)に、京阪神急行電鉄の小林一三会長が、職業野球開催の機運を捉え、建設を指令しました。

 

球団史によるとシカゴのリグレーフィールドとクリーブランドインディアンズの球場を参考に、わずか5か月の突貫工事で完成、工事費は当時の価格で270万円でした。物価指数から算出すると現在の20億円弱位でしょうか。

 

当初は西宮北口駅に直結させる予定でしたが、用地買収の都合で今の位置となったそうです。

 

「阪急ブレーブス五十年誌」によると、球場設置にあたっては、

①内野の収容力を高めるため、日本初の二層スタンドとし、鉄傘を設置する。

②内外野のスタンドは全て曲線とし、スタンドの傾斜の焦点をホームにあて、どこからでも見やすくする。

③内野席の大半を背もたれ付きシートとし、楽に観戦できるようにする。

④将来ナイトゲームができるよう、照明設備を設置できるようにする。

というコンセプトがあったようです。


「出典:野球場建設の研究 沢柳正義著」


まだ木の足場なんですね。



「出典:野球場建設の研究 沢柳政義著」


周りにはまだ田んぼがたくさんあります。大きな鉄傘は2層スタンドすべてを覆っています。


外壁はクリーム色だったようです。今見てもスマートな外観。100年ほど前にこんな球場が完成していたなんて驚きです。


昔はスコアボードがオレンジ色でした。ヴィヴィッドな色使いが印象に残っています。昭和57年には、アストロビジョン付きのスコアボードとなりました。近代的な外観でカッコよかったです。

 


「出典:野球場建設の研究 沢柳正義著」


完成時のスコアボード。何色だったのでしょうね。



「出典:阪急ブレーブス五十年誌」


西宮球場といえば、このスコアボードですよ。初代の雰囲気を残しつつ、大型スクリーンが設置されています。


「出典:阪急ブレーブス五十年誌」


当時は大きな画面での映像が画期的でした。

梅田駅のビッグマンといい、阪急は大画面好きです。

 

グラウンドは、開設当時は天然芝でしたが、競輪のバンク設置の影響で、外野両翼の守備位置部分は芝がなくなっています。それもあってか昭和53年(1978年)には外野に人工芝が敷かれました。

 

人工芝記念入場券によると、芝の素材は「塩化ビニリデン」という、釣り糸に使われている素材。現代のハイテク人工芝とは違って摩擦がすごそうです。しかも人工芝の下にはクッションゴムが1cm敷かれているだけで、その下はアスファルト。アンツーカー部分に至っては下が「少し固めのコンクリート」。足腰への負担は相当なものだったのでしょう。


それにしても「少し固めのコンクリート」って何?


その後、平成2年(1990年)には内野にも敷かれ、全面人工芝となりました。



「出典:野球場建設の研究 沢柳正義著」


 当初は、内野にも芝生がありました。



1975年の日本シリーズ優勝記念乗車券です。

ライトの守備位置の芝がなくなっています。




ちなみにラッキーゾーンではなく、ラッキーフェンスと言ってたのですね。


プロ野球を観戦し始めた頃は、スマホはおろかデジカメもなく、写真を撮る習慣がなかったので、試合開催時の画像はありません。なぜ写真をとらなかったのか悔いが残っています。


プロ野球が開催されなくなってから、写真を撮る習慣が少しついてきました。取り壊し前に撮った写真を少し紹介します。



球場の銘板。「阪急西宮スタジアム」です。


チケット売り場


行事予定表。イベントはありません。



観客席は5階建てになっています。

スタンドへの通路。薄暗いです。


球場内の食堂「アストロ食堂」です。


それにしても、なんでアストロなのでしょうか。宇宙食でもつくってくれるのでしょうか。



スコアボードが取り壊されていて、野球場感がありません。


 座席は確かにホームベースを向いてます。

 

この球場では、結局20試合も観戦していませんが、1989年シーズン最後、優勝が決まりかけた時、珍しく球場が満員になったこと(結局近鉄が優勝)、上田監督1000勝の門田選手の逆転満塁サヨナラホームラン(1990.9.9)や小雨の中でのオリックスブレーブス最後の試合(1990.10.5)が印象に残っています。


「阪急西宮スタジアム」でのプロ野球の最終試合は、平成6年(1994年)8月24日の阪神タイガースVS広島東洋カープですが、オリックスとしての最終試合は、ブルーウェーブ時代の平成6年(1994年)3月18・19日のVS中日ドラゴンズのオープン戦の2連戦でした。


昔は18時15分開始でした。


ファンクラブ会員は半額で入場できました。


ゴム印が「阪急西宮スタジアム」になってます。


3月18日の試合終了後には、当時野球解説者だった田尾氏が投手となり、当時臨時コーチだったブーマーと髙橋智選手が交代でフリーバッティングをしていました。元阪急戦士たちも、最後の西宮球場ということで名残を惜しんでいたのでしょうか。


西宮北口駅構内の周辺地図


球場の外壁の街区表示板


西宮北口駅の1階のシャッターには野球選手のイラストがありました。背番号2は山越選手?

 

(その2へ続く)