鹿児島見聞録・・・その9 知覧特攻平和会館を訪れて 後編 | 世界自然遺産「屋久島」ライフ

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屋久島の大自然と日常を写真で紹介しています。

特攻会館を訪れての後編、特攻兵の遺書を中心に紹介させて頂きます。

数々の若い青年が我が身を日本の国の礎に捧げる際の最後の言葉を一部ですが紹介させて頂きます。


屋久島人の日記


久野正信中佐、享年29歳。

既にお子さんがいてそのお子さんへ宛てた手紙みたいです、この手紙は特攻会館で全て読みました。

小さなお子さんに宛ててるのですが、母を助け立派な日本人になるよう、また自分の好きな道を進みなさいと記されてます。

自分が好きな道を進めない時代に生れた事、また自分が死んで我が子の将来の道を切り開こうと思った事、とても悲しい手紙です。

このお年で中佐とは相当に賢く人格者だったんでしょう、こんな日本のリーダーになる人達も死地に自ら向かったんですね。


屋久島人の日記


志の高さと勇猛果敢な言葉、また字も美しく教養のある方なんでしょうね。

恐怖心もあるだろうに微塵も出していません、立派ですよね。

小川真一少尉、享年23歳


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韓国籍の大河正明少尉、享年17歳

17歳と言う事は満16歳です、韓国から13、14歳程で連れてこられたのか日本で生れたのか。

中学生の年で爆弾抱えて自爆する訓練をさせられ高校1年生の年で自ら特攻したんですよね。

これをさせた日本と言う国は明らかに間違ってるしその将来が豊かな国になるはずが無い。

でもこんな方達の志が今の礎を作ったんですよね、そんな死地に送り込んだのは日本の軍上層部と政治家だと思います。

韓国の方や台湾の方も特攻兵として亡くなってます、特攻兵に限りませんが兵隊さんとしてアジア圏の方々を徴兵したのも事実です、日本が戦争責任が無いとは言えないです。


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山本正巳少尉、享年19歳

19歳と言う事は満18歳です、高校3年生の年ですよね。

皇国を護る為立派に死ぬ機会を得ました、死んでも両親は泣かないと思います。

と記されてます、18歳の息子が爆弾抱えて飛び込む事を望む親がいるのでしょうか?

泣きたい、止めたい、代りたいと思ってるはずです。

そんな事も言えない時代だったんでしょう、異常な時代だったんだと思います。

鹿児島県の方です、出撃の際は我が家の方角を見て飛び立ったんでしょうね。


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清水保三少尉、享年23歳

妹の清子さんへ宛てた手紙です、この手紙を読んだ清子さんは本当に辛かったでしょうね。

この手紙を読んだ頃には既に海に散ってたんでしょうから。


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上津一紀少尉、享年20歳

鹿児島県出身の方で7名の弟、妹さんへ宛てた手紙です。

天皇の為、国の為、そして愛する家族を護る為死地に向かう覚悟を自らしたんでしょうね。


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中村寛大尉、享年20歳

最後に残す言葉は母への思い、わずか19歳で自ら死地へ向かう気持ちっていくばくか、この手紙を読む母様のお気持ちはどんなものか、その後の母の日々の辛さ、寂しさ。

こんな悲しい歴史が日本と言う国に戦争放棄を誓わせてるんですよね。


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私のコメントの稚拙さとは違い立派で教養ある文暦、読めば気持ちが伝わってきますよね。

でも恐怖や不安、悲しみを押し殺してる様に思います。

猫橋芳朗大尉、享年22歳


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内田新一少尉、享年18歳

内田少尉の青春時代はどんなだったかと・・・。


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長家利左衛門少尉、享年18歳

高校2年生にあたる春、人生これからいろんなチャレンジをして行く時期、これからの人ですよね。


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上川軄少尉、享年19歳

18歳にしてこの達筆、いかに教養のある方なのか。

このまま人生を最後まで生きたら素晴らしい人生だった事と思います。


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橋正豊次少尉、享年20歳

特攻にて敵艦を沈め愛する家族を護る、この頃では本土空爆も過酷な戦況の頃だと思います。

無数の爆弾で親兄弟、親族、友人、同じ町の人が焼かれていく辛さが少尉の様な若者を死地に送ったんでしょうね、我が身に代えて護りたい。


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長谷部良平少尉、享年18歳

国を思い、母を思い残した遺筆。

若き特攻兵が自ら御国の為に死地に向かう栄誉、立派な息子とその母が称えられる姿を思い自ら特攻。

立派な姿とは思いますが母親の気持ちは蔑まれても、陰口言われても生きてて欲しかったんじゃないでしょうか。


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安倍正也大尉、享年21歳

成人の年に我が身を捧げれば日本は永遠に栄えると信じて疑わない遺筆。

確かに彼らの志が今の日本の礎です、彼らの死と志を忘れてはいけない気がします。


屋久島人の日記


若き彼らの笑顔、今の時代の若者と何も変わらない素敵な笑顔です。

この後も素晴らしい人生が待っていたと思います、そんな彼らを死地に爆弾抱えて送った軍上層部と政治家達。

彼らは必ず死が訪れます、苦楽を共にした同輩と死後再び再会を望んで 「死んだら靖国で会おう!」 と戦地へ向ったんです。

同輩との友情も厚かったんだと思います、その同輩と勇気と戦果を称え合う為靖国で再びの再会を誓ったんでしょう。


ごく一部の遺書や遺筆を掲載させて頂きました、一人せ数枚残っていますので沢山の手紙があります、ほんの一部だけ紹介させて頂きました。

鹿児島を訪れる際は是非立ち寄ってみませんか?本当の意味で人生観が変わります。


特攻兵は靖国神社へ祀られてます、他の戦没者や軍人も祀られてます、戦犯に問われた方もいます。

それでも日本の礎の為死んでいった英霊達が祀られてるんです。

そんな英霊に日本国民が手を合わせる事は大切な心だと思います。

また政治家は二度と間違いを犯さないと誓い、手を合わせ参拝する事は大切な事だと思います。

政治家の靖国参拝は他国に避難されるものでも干渉されるものでも無いはずです、もちろん日本と言う国がアジア諸国に負わせた責任はもちろんありその責任は取らねばなりません。

それが出来ていないから靖国参拝を非難されるんでしょう。

アジア諸国への責任、戦死された国民や兵士への責任、色々な犠牲の上に今の日本があるのでしょうね、政治家も国民も一緒に再考する必要があるのでは・・・。



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