御存知の方には失礼かもしれませんが、日本人と華人の縁が如何に深いかを簡単にご紹介したいと思います。日本の辞書では「華人」を海外の中華系民族を指しますが、海外も含め中国大陸内外に居住する中華系民族を「華人」と言います。

 

「中国人」という名称が一般的に使用される様になったのは、中華人民共和国(中国)が1949年10月1日に成立してからです。我が国日本と「中国」の関係は戦後でしかなく、日本が中国大陸で戦争を展開したのも相手は中華民国(国民党政府)ですから、戦争の被害者を「国」でいうと中国ではなく「中華民国」、真の被害者は「華人」なのです。我が国の国内において「日中友好」を唱える人達がいますが、違和感を覚えます。もし、それを言うのであれば「日華友好」でしょうね。

 

さて、日本人と華人の深い関係についてご紹介したいと思います。中国になってからは、政治的且つ意図的に「友好」を唱えていますが、中華人民共和国成立後の日本人と「中国人」の関係は、中華民国及びそれ以前の日本人と「華人」の関係には足元にも及ばないのです。

 

中国大陸がまだ清朝の頃、伊藤博文が首相を辞した後に光緒帝の顧問であるティモシーリチャードに招聘され北京紫禁城を訪問し、光緒帝が進める近代改革に対し光緒帝に直接助言しています。光緒帝は西欧及び日本の近代化を学ばせる為に、極めて多くの留学生を日本に派遣していました。1903年は1000名程度でしたが1906年には1.3万人だったそうです。清国留学生を受け入れる為にできた弘文学院(東京教育大学の前身である東京高等師範学校の嘉納校長が設立)、その他受入れ先として陸軍士官学校の成城学校、振武学校、東京同文書院、法政大学速成課、早稲田大学清国留学生部等がありました。

 

他方、清朝打倒に燃える革命家達も数多く日本に留学しましたし、辛亥革命前後、中華民国成立後も数多くの華人が日本に留学しました。日本に亡命した華人も数多くいました。戊戌の変法を唱えた康有為や弟子の梁啓超、孫文が有名ですね。清朝を打倒すべく中国革命同盟会は東京で設立されました。蒋介石、魯迅等、周恩来等も日本にいたことで有名ですね。近代革命に身を投じた華人の多くは日本で学び、そして中国大陸に戻った後その多くが生命を失いました。蒋介石が北伐後に中華民国政府を建国した前後も数多くの国民党員が日本にて学びました。

 

あの有名な夏目漱石は満鉄に行く際に北京にも寄っています。芥川龍之介は長期間北京に滞在し北京に惚れ込んだ一人です。当時の北京と現在では全く風景も社会も異なりますので、当時はやはり良かったのでしょうね。

 

当時日本留学中の華人の写真を見ると、和服(着物)を着ている人が多いですね。

 

我々日本人と華人の縁は切れないのだと思います。