Aiの時代 | 九代目家元 杵屋彌吉のブログ

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長唄の唄方を生業としております。
ここでは、非日常と日常の中で感じることを綴ってまいります。

 昨年あたりから、生活の中にAiが入って来た。
はじめは面白さだけでChat-GPTなどを触っていたのだけれど、時折TVでも、ニュースの読み上げなどに使われ始め、いよいよなのだな、と感じていた。
今年に入り、郵便局に集荷依頼のための電話を掛けたところ、オペレーターがAiだったのには驚いた。

昭和の時代から考えると、電化製品などは、常に進化し続けて来ていたし、変化は常にあるものだと、よく知っている。
けれど、大きな変化というのは、しょっちゅう起こるものでもない。
パソコンや携帯電話の普及は、大きかった。
昔は、駅に伝言板があったのを時折、なつかしく思い出すけれど、そんなものは、ノスタルジックなだけで、エコだから使いましょう、というようには、ならない。  
技術が進んでしまえば、後戻りはできない。
便利なものを手放すことで、生活が不便になるからだ。
Aiは、携帯電話が普及したこと以上の大きな変化をもたらすのだろうと思っている。

昨日、日経新聞一面の記事を見せてもらったところ、開発に携わる側の苦悩と、近く迎えるシンギュラリティーへの期待と不安を感じた。
Aiは、素晴らしい技術革新だ。
人間がこれまでして来た仕事を、少しずつ、代ってこなして行こうとしている。
文章の要約や、画像の生成など、ほんの数十秒でやってのける。
その結果、将来、人間がすることのなくなってしまう職業について書かれた記事なども飛び交っている。
けれど、それはまだ一部のことだし、相手が機械で在り続ければ、人間がその技術を享受する側に立ち、使って行けばよいことなのだ。
ところが人格を持つ可能性がある以上、どこかでセーブしなければ、Ai自体が自分で学びはじめ、自己を改良するというシンギュラリティに到達してしまうと危険かもしれない。
開発者側で、それを提唱しようとしたらしい人があったけれど、生産性も著しく向上するらしい。
資本主義である以上は、経済重視の方向に向かうのだろう。
既に、武器としての活用も進んでいるとか。
新しい技術を開発する人は、それを専門としているわけで、セキュリティーの専門家でもないので、そういう可能性について発想がなくても仕方がないとも思う。

さて、では、最後まで残る仕事は、なんだろうか?
人間は食べたり眠ったりしなければ生きられないものだけれど、それだけで何もせずに生きるということは精神的に耐えられないだろう。
楽しみがなければ、精神的には闇に向かってしまい、これも生きられないと思う。

楽しみと言えば、やはり芸術ではないかと思う。
(ちょっと強引?)
確かにAiは、小説を書き、絵も描くし、音楽も作曲する。
でも、人間の心地よさは、完璧に完成されたものだけの中にあるわけでもない。
ひとというのは、優れたもの、何かを超越したものに対して賞賛もするけれど、少しの歪やズレというものにも、人間らしい温かみとか味を感じているものではないだろうか?
なので、芸術というものに関しては、人は負けないと思っている。

*写真は、Aiに描いてもらった”長唄”のイメージ。

さぁ今日も、頑張ろう!